2011年7月 1日 (金)

短時間でも

  私たちには善を為す力があります。これは神様からの賜物いであります。

しかし折角の「善を為す力」を何時、どのようにはっきしたらいいのかよくわからない人が非常に多いと多いと思います。そのため、折角の「善を為す力」という賜物を使う機会を失ってしまうのであります。

 ここにカール・ヒルティが認めた文があります。この文を読んでみましょう。

  一分か二分かのどんなわずかな時間でも、なお何かいいことや有益なことに使えるものである。最大の決心や行為もごくわずかな時間しか要しないことがよくあるものだ。そして単に時間が足りないという口実で決して善事を延ばしてはならない。善を為す全く同じ機会が二度と訪れることは決してないことが多い。しかし、何かはっきりせず、急を要しない時は、先へ延ばすがよい。そうすればしばしば、ことがはっきりして、それに対する勇気がそれ以上あれこれ思いあぐねずとも、全くひとりでにやって来る。人間の精神は無意識でも働くものであり、行動するにも、正しい行動と言う確信によってのみせねばならない。
    カー
ル・ヒルティ
       眠られぬ夜のために Ⅱ 二月二十九日

 そうです、善いことは短時間でも、時間さえあれば、するという意思さえあれば、その善いことをすることが出来るのです。

 わたしたちはその善を為す時間を、タトへ短くてもその時間を逃してはならないのであります。その点、善を為す機会を絶えず逃さないようにしなくてはならないのであります。

 もう一人の人の言葉も読んで見ましょう。

   善き事を思へるは善き事を思へるに過ぎず、悪しき事を思へるは悪しきことを為したるなり。
       長谷川 如是閑

 善いことは思うだけでは駄目なのであって、それはただの思いに過ぎないのであります。一方、悪いことは思うだけで悪を行ったことになるのなるのであります。非常に厳しい言葉であります。

 私たちは善いことが思いついたら、即座に実行すること、これがとても大切なことなのであります。機会を失ってはならないのです。よいことを思うだけでは、なんにもしないのと同じなのです。案外それ以上に非難されることかもしれないです。

 悪いことは心の中で思っただけでも、悪いことをしたのと同じなのです。

 今回は善を為す、悪をなすということについて今一度考えて見ましょう。

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2011年6月27日 (月)

善悪を知る木

  旧約聖書を紐解いて見ましょう。

 次のような記事が書かれています。

   創世記二章十五節から三章二十四節

 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、こ
   れを守らせられた。

  2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からで
       も心のままに取って食べてよろしい。

  2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
     それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

  2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のた
       めに、ふさわしい助け手を造ろう」。

  2:19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造
       り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見
       られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

  2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名
       をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

  2:21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一
      
つ を取って、その所を肉でふさがれた。

  2:22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところ
       へ連れてこられた。

  2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたし
       の肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

  2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるので
       ある。

  2:25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わな
       かった。


  3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であっ
       た。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほ
       んとうに神が言われたのですか」。

  3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許され
       ていますが、

  3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これ
       に触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

  3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

  3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者と
       なることを、神は知っておられるのです」。

  3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるに
       は好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫に
       も与えたので、彼も食べた。

  3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったの
       で、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

  3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を
       聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間
       に身を隠した。

  3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

  3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だっ
       たので、恐れて身を隠したのです」。

  3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食
       べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

  3:12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取って
        くれたので、わたしは食べたのです」。

  3:13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたの
       です」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたし
       は食べました」。

  3:14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、す
       べての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは
       腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。

  3:15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女
       のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかと
       を砕くであろう」。

  3:16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに
       増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、
       彼はあなたを治めるであろう」。

  3:17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わた
       しが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわ
      れ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

  3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を
      食べるであろう。

  3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から
      取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

  3:20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の
      母だからである。

  3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せら
      れた。

  3:22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、
      善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永
      久に生きるかも知れない」。

  3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたそ
      の土を耕させられた。

  3:24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつる
      
ぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

  神様は「善悪を知る木」からは取ってはならないと言われました。

 悪魔であるサタンはイヴに何と言ったでしょうか。
「神様は本当に善悪をを知る木からは取ってはならないと言われたのですか。」

 サタンはズバリとは言いません。サタンは必ず人間に疑いを抱かせるようにします。人間がチョッとでも疑いを心に抱けば、もうサタンの掌の上におかされているのであります。おそらくはサタンは勝ったとひそかに叫んでいるでしょうね。

 更に悪魔は言います。もし好みを人間が食べたなら、人間が神様と同じように賢くなることを恐れているのですよ。

 ここで、ヒルティに登場して頂きましょう。

  善悪の認識の木は、人間にとって危険なものである。神の国に従う人は、徹底して善の領土内に留まるべきで、悪も学んで見ようかなどと思ってはならない。そうでないと、悪は人間に牽引力を及ぼすからである。この暗礁に乗り上げて、無数の人が難破し、その他の点では、どんなによい計らいを持っていても、読書や社会関係からだけでも破滅して行く。
         カール・ヒルティ
           眠られぬ夜のために Ⅱ 十一月十九日

ヒルティが言っているように、私たちはいつも善の領域にいなくてはならないのであります。善の領域、神の領域です。その領域内にいるならば、悪の支配に入ることはないであろう。サタンは善の領域、神の領域では力を発揮することが出来ないのであります。

 しかしサタンは自分の領域内に入って来ると、絶大なる力を持つのであります。今日の言葉で言うならば、サタンはホームでは強いが、アウエイでは力を発揮することが出来ないのであります。

 「悪を学んでみようか」、こういう思いは既にサタンの領域に入っているのであります。

 サタンが人間をサタンの領域に引きずりこむ最大の方法は難であろうか。

 疑いを抱かすことであります。人間が極端に言って、善か悪かについて、疑いを抱かせることが出来たら、サタンの領域に引きずり込まれつつあるのであります。いや、もい引きずり込まれているのであります。

 善に素直に従うという心をいつも持つようにしなくてはならないのであります。善の領域内にあって、善を成すものとなりましょう。

                   

 

 

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2011年6月24日 (金)

動かす

 この世には、精力的に動き、語り、実績を挙げている人も非常に多い。更に彼らの中には非常に優れた指導者となっている人たちもこれまた非常に多いようであります。

 このような人たちは一体どういう人たちなのでしょうか。

 ローマの雄弁家であるキケロは次のように言っています。

 「雄弁家の三つの心得は、教えること、喜ばせること、動かすことなり。」  キケロ

 ちなみにキケロという人物は、ローマの雄弁家、せいしか、哲学者でありますが、ラテン散文の完成者と言われています。ローマの共和制末期のオ乱世に、最高の教養と雄弁を持って、不正の弾圧、自由の擁護者として活躍しました。

 最近は人を教え、喜ばせるところまで、やれる人は結構いますが、いざ、人を、人の心を動かすとなると、そのような人たちは非常に少ないように思われます。

 今日の日本の政治家の中には、人を動かすことの出来るような人がいるであろうか。人の心を動かそうとすれば、無私、文字通り、滅私奉公でなくてはならないと思います。

 滅私奉公というと、人々の中には、抵抗感を覚える方もおるのではないかとも思います。

 sかし、今の日本には、滅私奉公の心で、国のため、国民のために我が身を投げ出そうという人は、残念ことですが、いないように思われます。

 日本の政治家には、ポリティシャンが多くて、ステイッマンが少ないようであります。ポリティシャンとは利欲をむさぼる政治屋を意味することが多いのですが、自分のこと、党のことしか考えない政治家のことであります。ステイッマンとは、政治家のことであり、国民のため。国のために政治をしようとする政治家であります。

 今の国会討論を聞いたり、またテレビや新聞などを見ていると、日本の政治のレベルが低いなあと思わざるを得ないです。

 国民を教え、国民を喜ばせ、国民の心を心を動かし、自らが国のために、国民のために、動き、働くステイッマンよ出でよであります。

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2011年6月22日 (水)

仕事

  人間にとって、働くということはこの上ない素晴らしいことであります。神様も天地創造のときに、6日働かれ、7日目に休まれました。

 神様によって創造された人間も6日働くのである。

 最近、特に日本は休暇を増やそう、しかも出来るだけ連続して休ませようと

考えているきらいがあります。私は日本人は休みの取り過ぎだと思っています。昔は日本人はよく働いて、非常に勤勉であると言われていました。

 今日の日本人は勤勉と言って、世界に誇れるでしょうか。

 仕事をしなくてはならない。仕事をしていれば実際、幸せであります。

 カール・ヒルティは書いています。

  生における幸福なときとは、要するに、仕事に没頭している時のことである。「暖かに燃えるストーヴの傍らで説教集に読みふける」真面目なタムや家臣たちに敬いかしずかれ、父親のように彼らにまじり、安らかな老境を楽しむ人や(ペスタロッチの代官アルナーのタイプ)、あるいは前世紀ののある時期に出た本によくあった「柔和な」牧師さんや、偉い老教育家などのようなさまざまのセンチメンタルな人間像は、常に幻想であったか、あるいはともかく現代の我々においてはもはや真実とはなり難いものである。いまはの息を引き取るまで活動的であることが、学者、牧師を含め現代に生きる生の意味であり、合言葉である、-もしそれがそれらが我らの運命であるならば!
    カール・ヒルティ
       眠られぬ夜のために Ⅱ 八月二十九日

 仕事に没頭している時が一番幸せだといいます。確かに自分の天職と思う仕事に没頭できる、これほど幸せなことないであろう。

 ヒルティは、私たちが息を引き取るまで活動的である、即ち、仕事に没頭する、仕事を愛し、とことん働く、これが今日の生の意味であるといいます。

 私たちはよく生きる意味が分からず、あるいは失っている人たちをよく目にしますが、彼らが働くということに、目覚めるならば、必ず生きる意味を見出し、幸せを手にすることが出来と思います。

 仕事に没頭しましょう。そこに自分の存在意義(レーゾンデートル)があるのであります。

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2011年6月20日 (月)

何を当てにする

 世の中には何も当てにしないで、なんでも自分で出来る、自分が一番なのだと言っている人が沢山います。

 自分を信じ、自分を頼りにしている。このような生き方をしているのです。

 しかし今回の東日本大震災で、今まで絶対安全だと、一番頼りにしていた、いや全幅の信頼をしていた原発神話がもろくも崩れ去ってしまった。

 津波対策然りであります。人間の計算をはるかに超えた大津波が来たのであります。

 何を頼りにするか、何を当てにするかであります。

 カール・ヒルティが次のように言っています。

  「兄弟たちよ、神のみが偉大なのだ。」生前「大王」と呼ばれることを好んだルイ十四世を弔う弔辞の冒頭にあるこの言葉は、それが確信となった時には、神以外のもっと別なものをいつもーいつも間違っているわけだがー当てにしている現代のすべての政治的社会的ものの見方を変えてしまう。あなたは出来るなら、そういった神以外の偉大なものから遠ざかりなさい。真の教養は、普通の教養とは逆に、まったく本質的にこの点を基礎としている。
    カール・ヒルティ
       眠られぬ夜のために Ⅱ 四月八日

 「兄弟たちよ、神のみが偉大なのだ。」という言葉は、ルイ十四世の最後の言葉か、取り巻きの人たちの言葉なのかはよく分からないけれども、亡くなる前に、「神のみが偉大だ」と言うのではなく、若い時からこのような言葉を言うことが出来るならば、その人の人生は祝福されるでしょう。

 菅首相がなかなか辞めるとは言わないで、これこれをするのが私の仕事と言って、延命している、そしてまたあれをするまではといって首相の座にしがみついています。

 ちょっと醜い姿ですが、本人には見えていないのです。正に裸の王様ですね。

 菅首相には、彼が頼りにするものは何もないように思われます。学生時代の学生運動では、デモをするときは、菅さんはいつも前から4列目にいたと言われています。3列目までは、もし警官隊と衝突したら、逮捕される可能性が非常に大きいが、4列目にいればほぼ逮捕されることはないと言われていて、彼はいつも4列目にいたということであります。

 菅さんは自己顕示欲は非常に強いが、危険は冒したくない、内弁慶的なところがあるのでしょうね。

 菅さんが真に頼りにするものがあれば、もう少しましなことがなされていたのではないだろうか。

 何とか早く、原発事故が収束することを願っています。これは一歩誤ると、日本沈没のなりかねないことでありますから、事故の解決を願わざるを得ません。

 真に頼ることの出来るものに、頼ることが出来るように謙虚に自分を見つめて行きたいものであります。
    

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2011年6月17日 (金)

 どうもインターネットを開くと、何故だか、どうしても日本語が入力できず、困り果てました。ちょっと不安定ですが、今日は何丘行きそうです。いつフリーズするかもしれません。

 今日は、「善」に関する聖書の言葉を二、三書くに留めておきます。

  箴言から
   11:27 善を求める者は恵みを得る、悪を求める者
     には悪が来る。

    3:27 あなたの手に善をなす力があるならば、これ
          をなすべき人になすことをさし控えてはならな
      い。

       3:28 あなたが物を持っている時、その隣り人に向
          かい、「去って、また来なさい。あす、それをあげ
          よう」と言ってはならない。

     15:4 優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を
         傷つける。

     16:24 ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、か
         らだを健やかにする。

   テサロニケ人への第一の手紙
       5:14 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰
         な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、
         すべての人に対して寛容でありなさい。
      
5:15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、
         お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求
         めなさい。
      
5:16 いつも喜んでいなさい。
      
5:17 絶えず祈りなさい。
      
5:18 すべての事について、感謝しなさい。

いつも膳を求め、善を行う者となろう!

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2011年6月14日 (火)

 遠藤周作の言葉です。
  

  魅力のあるもの、キレイな花に心を惹かれるのは、誰でも出来る。だけど、色あせたものを捨てないのは努力がいる。色のあせるとき、本当の愛情が生まれる。

 遠藤周作の作品を読んだのはいつのことであっただろうか。彼が亡くなってから、彼の作品を読んだことがないような気がします。彼が存命中はいろいろな作品を読んだものです。彼がシアリアスな面とユーモアたっぷりの面の両面を備えているところがいいのではないか。

 彼の茶目っ気な所にも、一つの真理が潜んでいます。彼の著書は私の愛読書になっています。

 それはともかく、人間をはじめ、なにものでも色あせていく、これは一つの定めであって、誰も避けることが出来ないことであります。

 私たちはものが色あせていくと、それに関心がなくなったり、興味を示さなくなったりしがちであります。しかしそれならば、普通の人間であります。

 遠藤周作が言うように、色あせたのを捨てない、盛りの時と同じような愛情を注いで行く。先ほど色あせたものに関心を示さなくなる、これは普通の人間といいましたが、いや、色あせたものにも変わらぬ愛情を持ち続けること、これが普通の人間の属性であって欲しいと思います。属性というのはちょっと大げさかもしれませんが、変わらぬ愛情を持ち続ける、そんな人間でありたいものです。

 遠藤周作の言う愛情は、ちょっとアガペーに近いかと思います。

 愛は大きく二つに分けることが出来ます。
一つは、エロスと言って、相手に価値があるから愛するという愛であります。価値がなくなったら、色あせてしまったら、もう愛情はなくなってしまうのです。これがエロスの愛です。

 もう一つの愛は、アガペーの愛と言って、相手に価値がなくなっても、無条件で愛し続ける愛であります。色あせてしまっても、愛し続けるのです。

 このアガペーの愛は、神の愛であって、神が人間救済のために、独り子である、イエス・キリストを十字架に架けられた愛なのであります。

 私たち人間は弱い、先ずは色あせてしまっても捨てない愛情を持とうではありませんか。更に、価値がなくても、その人を、そのものを愛するという愛を抱くようにしようではありませんか。

 神の愛ってどんな愛ということを求めた見てもいいのではないでしょうか。

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2011年6月10日 (金)

沈黙

  「沈黙は金なり、雄弁は銀なり」という。雄弁によって、納得させられ、その人の話の中に吸い込められるような時がよくあります。勿論、雄弁に語るということは何も悪いことではありません。それは一つの弁術であって、それによって、善に導くことも、悪に導くことも出来るのであります。

  その意味で、「雄弁は銀」と諺は言っているのであります。

あだ、雄弁に語るより、場に夜tれは黙っていたほうが、沈黙を保っていた方がいい時があるのであります。そのような経験は皆さんも経験済みではないでしょうか。

 「目は口ほどにものを言い」という諺もありますが、沈黙も、ただ黙っているのではないのです。

 沈黙の理解があるように、沈黙の怒りや反抗もある。
 黙っている人を畏れなくてはいけない。
       亀井勝一郎

 話すだけが能でありません。黙っている、沈黙しているということが非常に大きな力を持つことすらあるのであります。

 沈黙の勧め、沈黙することを学びましょう。
沈黙に関するいくつかの言葉からどのようなときに、どんな風に沈黙を保つか、逆に言うならば、どういう時に雄弁に語るべきか、そのことを学んで欲しいものであります。

 沈黙は愚人の知恵であり、賢者の美徳である。
            仏の思想家 ボナール

 沈黙を学べ、ああ、わが友よ! 言葉は銀にも等しい、
 ただ時にかなった沈黙は金だ。
            ベートーベン

 ベートーベンは森の中に入って、思索するのが大好きだったと言われています。それだけに、無意味な言葉にも、敏感で、かえって煩わしかったのでしょうか。それに、耳がいくらか不自由だったということもあって、言葉を語られるよりも、沈黙であってもいい、心と心が通じることを願ったのではないだろうか。

 それにしても、ベートーベンが語る言葉には真実があると思います。

  

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2011年6月 8日 (水)

喜び

 喜びというものは非常に大きいものです。喜びを感じる人の人生を一変させる、そういった力があります。

 本来、人間は喜びを感じるようになっていると思います。ただ、何処かに喜びを感じる心を置き忘れてきているのであります。

 聖書からいくつか言葉を聴いて見たいと思います。

  目の光は心を喜ばせ、良い知らせは人を健やかにする。   箴言 十五章 三十節

 目が輝いている。特に子供たちの目の輝きは素晴らしい物があります。どの国の子供たちも目が綺麗に澄んで、輝いています。これほどの喜びは他にないでしょう。

 大人も子供の目のように、目の輝きを取り戻さないといけないと思います。大人の打算の働く世界に、目も空ろになってしまうのでしょうか。濁った目の色になり、濁った輝きになってしまうのでしょうか。目に輝きを取り戻そうではありませんか。

 「正直者はバカを見る」、私は決してバカを見ることはないと信じていますが、仮にバカを見たとしてもいいではありませんか、正直者が一人でも増えてくるならば、それだけ、目の輝いている人たちも増えてくることになります。そこには喜びがあります。やがては喜びが充満することでしょう。

 心に喜びがあれば、顔色をよくする。心に憂いがあれば、気は塞ぐ。  箴言 十五章 十三節

 目の輝いている人の顔色は非常にいいのではないだろうか。血色がいいという、これ、目の輝いている人の顔色のようすであります。喜びに溢れている人の顔であります。

 聖書は言います。「いつも喜んでいなさい」と言っています。

    喜べば、喜びが喜び連れて喜んでやって来る。

この言葉は真実であります。次の言葉も真実です。

   悲しめば、悲しみが悲しみ連れて悲しんでやって来る。

  喜べば喜ぶほど、喜びは二倍にも三倍にも倍化されていくのであります。

 何時も喜びましょう。

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2011年6月 6日 (月)

短気

 短気であるために、大分損をした言う人は案外多いのではないだろうか。つい怒ってします。我慢が出来ないのである。しかし短気を出して怒って、得をしたためしはない。このことは誰にでも言えることではないかと思います。

 昔から、「成らぬ堪忍するが堪忍」ということ諺があります。意味は、ご存知と思いますが、堪忍できないようなことを堪忍するのが本当の堪忍ということです。

 このような諺があるということは、我慢できない、堪忍できない、直ぐに怒りを発してしまう人たちが多いということであります。

 それが身近にいれば、いるほど、身近にいる人に短気を起こしてしまうのであります。

 短気を起こすこと、これは慎まなくてはならない。

聖書に次のように書いてあります。

  箴言 14章17節     15章18節

14:17 怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐
    強い。

15:18 憤りやすい者は争いをおこし、怒りをおそくする者
    は争いをとどめる。

昔の賢者が語った言葉であるが、これは今の世にも通用する言葉であります。

 短気な人ほど、自制心に乏しく、つい怒ってしまって、愚かなことをしでかすのであります。「短気は損気」とも言われ、全くその通りであります。短気は起こせば結局は自分に跳ね返ってきて、自分は損するのであります。

 堪忍するとは愛することではないだろうか。

 聖書にも、「愛はすべてを忍び、すべてを耐える。」 
        コリント第一の手紙 十三章 七節

 いや、愛の十三章をすべて紹介しましょう。
         
       コリント人への第一の手紙 十三章

13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を
        語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかまし
       
い鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆ
       る奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山
       を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなけ
       れば、わたしは無に等しい。

13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施して
       も、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
       もし愛がなければ、いっさいは無益である。

13:4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことを
       しない。愛は高ぶらない、誇らない。

13:5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだ
       たない、恨みをいだかない。

13:6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

13:7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを
       望み、すべてを耐える。

13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言は
       すたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。

13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であ
        り、預言するところも一部分にすぎない。

13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすた
         れる。

13:11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らし
         く語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考え
         ていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らし
         いことを捨ててしまった。

13:12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼ
         ろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを
         合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、
         今は一部分にすぎない。しかしその時には、わ
         たしが完全に知られているように、完全に知る
         であろう。

13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希
        望と愛と、この三つである。このうちで最も大いな
        るものは、愛である。

 短気を起こさないようにしましょう!
短気を起こさず、更には堪忍するように、もし過ちならば許すところまで自分を持っていくようにしましょう。

  

 

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