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2008年7月12日 (土)

ぶどう園の労働者

 最初に次の聖書の箇所を読んでみよう。

    新約聖書 マタイによる福音書 二十章 一~十六節

20:1 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜
       が明けると同時に、出かけて行くようなものである。

20:2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送
        った。

20:3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っ
        ているのを見た。

20:4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさ
        い。相当な賃銀を払うから』。

20:5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろ
        とに出て行って、同じようにした。

20:6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言
        った、『なぜ、何
もしないで、一日中ここに立っていたのか』。

20:7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、そ
        の人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。

20:8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者た
        ちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初に
        きた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。

20:9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもら
        った。

20:10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていた
         のに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。

20:11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして

20:12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あな
          たは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさ
          いました』。

20:13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対
          して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をした
          ではないか。

20:14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあな
          たと同様に払ってやりたいのだ。

20:15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。そ
          れともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。

20:16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

  お読みになられましたか。こんな不公平な話ないでしょう。このぶどう園の主人は不公平で、理不尽で、やっていることは無茶苦茶だ。あれでは朝から働いてきた労働者が可哀想だ。

 どう考えても、この主人のやり方には納得できない。
ここが、この箇所をはじめて読んだ人の、あるいは何回読んだ人でも、納得できない、分からないところであります。

 ところで、ぶどう園は神の国の象徴である。朝早くから雇われた労働者は、有能な労働者、パリサイ人であり、誰も雇ってくれるものもなく、仕事にあぶれていたところ、夕方の5時ごろに雇われた労働者は、多くの場合は特に能力もなく、また病人であり、老人であろう。彼らは罪人を暗示しているのである。

 ぶどう園の主人は神である。

 府k法兵を訴えた労働者の気持ちは痛いほどよく分かります。しかし、この物語は自分を朝から働く労働者やその立場に立つのであれば、何べん読んでも分からないところだらけであります。

 そういう朝から働いている労働者に対して、主人は、「私は何も不公平なことはしていない。あなたと約束した通りのことを履行している夕方遅く雇った、劣った労働者にも、私は1デナリを支払いたいのだ。時間とか資格とかいったものは問題でなく、私の好意から与えたのである。それなのにあなたはどうして、私を妬むんですか。あなたもどうして素直に私と一緒に喜んでやれないのですか。」という。

 表現の仕方の一つに、「最後の強制の法則」というのがあるそうであります。私も初めて耳にする言葉であります。どんなものかというと、わざと私たちの疑問や反発真を起こさせて、最後に、この場合で言うならば、雇われたものたちに対する主人の愛が如何に大きいものか、常識を超えた神の愛の深さを考えさせようとしているのであります。これを「最後の強制の法則」という。

 報酬の1デナリを「神の愛」と考える時、夕方5時に雇われた者に対して、朝早くに雇われた者の何分の一の賃金しか払えないという具合には行かないのであります。何故ならば、「愛」は全人格的なものであり、決して分割出来るようなものではないのであります。

 この物語の解釈は非常に難しく、いろいろな考え方が合いますが、多くの場合、先程のような神の愛について述べているのであります。

 「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」
この言葉が最後についているのですが、この言葉も中々理解しにくいものであります。

 このぶどう園で、明日も民が働くと仮定しよう。

 夕方5時に雇われ、少しの時間しか働かなかったにもかかわらず、一日分の賃金を貰った労働者は、明日もこのぶどう園で働けると知ったならば、「よし、今日の分まで、明日は働こう。この主人のためにもっと一生懸命働こう」と思うであろう。

 一方、朝から一生懸命に働いたにもかかわらず、遅く来たものと同じ賃金(主人と自分の間で契約した額だが)を支払われた者たちは、明日も同じように働くならば、明日は遅く来て、ほどほどに働いておこうか、昨日はバカ正直に働いて損をしたと思うであろう。

 後から来た(人間的には罪深く、取るに足らない人間)にもかかわらず、大いなる愛をもって接して貰った者は、感謝の心をもって、自発的に働こうとする、いつの間にか彼らは優れた働き人となっているのである。

 然るに、先から働いていて、文句を言っていた人間は、働く意欲も持たず、サボろうとし、要領よく振舞おうとして、いつの間にか、くだらない人間に陥ってしまっている。

 「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」とは、このことを言っているのである。

 このことは神(信仰)の世界だけの話だけではない、実生活の中でも、起こっていることであります。私たちも、心しないといけないことであります。

 

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