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2010年9月19日 (日)

この世の君

  ヒルティは彼の書、「眠られぬ夜のために Ⅱ」の12月1日のところで次のように書いている。

 いったんこの世の君、悪と絶交したならば、よく用心して、彼の領土で捕まらないようにしなさい。かれは、そこではあなたを支配する力があるが、それ以外のところでは、無力である。彼が人間を自分に使えさせる主な領域は、金銭、名誉、そして享楽であり、それになお欠くことのできないものに、嘘と思い煩いがある。
    カール・ヒルティ
       「眠られぬ夜のために Ⅱ」の12月1日

悪魔は自分の領域以外では、いい働きが出来ない。無力であるということをまず知ろう。

 悪魔の領域に入りかまなければいいのである。彼の支配する領域は、「金銭」「名誉」「享楽」「嘘」「思い煩い」ということである。

 しかし悪魔が支配する領域なるものは、人間を誘惑するに十分である。悪魔のとる手は、その人の言うことを頭から決して否定しないで、上手に疑いを抱かせる、そしてもう一方の方がいいなあとかすかに思わせるのである。

 悪魔が人をしてちょっといいなあと思わせたとたん、人は悪魔の支配する領域に入り込んでしまっていて、どうもがこうがそこから逃れそうにはないのである。

 悪魔の支配する領域があるのならば、一方に神の支配する領域があることを知っておく必要がある。愛かと感謝とか、寛容とか、喜びとか、親切とか、誠実とか、神の支配する領域はいくらでもあるのである。

  私たちは意識的に神の支配する領域に留まるようにしなくてはならない。私たちの世界に神にいていただく、それよりも神の世界に私たちが入っていく、その時こそ悪魔の支配から完全に逃れて、神の国の恩恵に預かることが出来るのである。

 悪魔の支配する領域から、神の支配する領域に入っていこう。

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2010年9月16日 (木)

真理

  今回もカール・ヒルティの言葉に耳を傾けてみよう。

 真理を、あるがままに正確に、誇張もなく語れ。それが出来ぬ時は、黙せ。 
  注:出エジプト記 20:16  23:1  エペソ書 4:25 
            カール・ヒルティ

 注にある言葉を記すと

 出エジプト 20:16
   あなたは隣人について、偽証してはならない。

 出エジプト 23:1
   
 あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携
 えて、悪意のある証人になってはならない。

 エペソ書  4:25
  こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対し
  て、真実を語りなさい。

 真理を語れないときはどんな時であろうか。残念なことには、その時は、語ろうとする人に語る勇気がないときであり、或いは、語るべき言葉がないときであろう。

 真理に頼ることである。真理を心底、信じ、信頼することである。そのことは究極においては、真理が属性であるというより、真理そのものである神に頼ることになるのである。

 真理に対して謙虚であるとき、必ずや真理をあるがままに、正確に、誇張せずに語ることが出来るであろう。

 ヒルティの言葉をもう一つ記しておこう。

  われわれは間違いない正しさを学ばなくてはならない。この地上で出来なければ、べつな生に行ったとき、新たにやり直さなくてはならないであろう。それならここで、学ぶがよい。   カール・ヒルティ 
  

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2010年9月13日 (月)

ジェファーソン

  トーマス・ジェファーソンといえば、アメリカの独立に際しては、「すべて人は平等に造られた(All men are created equal. )」の一文で有名な独立宣言文の起草者であり、アメリカの第三代大統領である。

 ワシントン大統領の影で、余り目立ちはしないけれども、かの有名な十三代大統領のリンカーンはジェファーソンを師と仰いでいるのである。そして更に言うならば、現大統領のオバマはリンカーンを師と仰いでいる。いわばオバマ大統領はジェファーソン大統領の孫弟子に当たるわけである。

 彼の言葉、 いかなる政治や政府も、支配者に任せきりでは堕落します。

 現在、民主党政権下にあり、代表戦が明日にも行われようとしている。代表になれば、彼は日本の首相なのである。国民が参加できない選挙である。首相が決まるのである。代表になる人に、その政府にまかせっきりにならないように政治を注視してrかなくてはならない。

 1801年3月、大統領就任演説で、彼は次のように非常に興味深いことを言っている。

 私は米国政府は世界最強に国であると信じます。(中略)混乱の極にある旧大陸とは幸いなことに大西洋によって分かたれております。しかし、他国民の堕落を黙って見過ごすにはあまりにも高貴な精神を有しております。

 19世紀初頭で、米国は最強だと思っている。また国家としてまだよちよち歩きのもかかわらず、今の米国に通じる気概が伝わってくる。

 その点を考えてみても、米国という国は凄い国だなあと思うのである。

 またジェファーソンはこうも言っている。これもわが国の隣国について言っているようで興味深いものがある。

 世襲の政府ほど馬鹿げており、不当で、圧制的で、破壊的なものはありません。

 ジェファーソンのような政治家が日本に輩出してこないのだろうか。

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2010年9月11日 (土)

愛は人を賢明にする

 「愛は人を賢明にする」という。

 ヒルティが次のような文を書いている。文の紹介に終わりますが、読んでみよう。

 愛は、他のいかなるものにまして、人を賢明にする。ただ愛のみがよく、人々の本質と事物の実相とについての洞察を、また人々を助けるための最も正しい道と手段とについての本当の透徹した洞察力を与えてくれる。
 だから我々は、あの事この事について、何が最も賢い処置であるかを問う代わりに、何が最も愛の深い仕方だあるかを問う方が、大抵の場合、確かに良策である。というのは、後者の方が前者よりもはるかに分かり易いからである。何が愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしない限り、そうたやすく錯覚に陥ることはない。ところが、最も才能豊かな人でも、ただ賢さだけでは、将来のあらゆる出来事を正しく予見し、判断することは出来ない。
    カール・ヒルティ
      眠られぬ夜のために Ⅰ 五月二十三日

 愛は、私たち洞察力を与えてくれるという。そして、その洞察力というのは人を助けるための正しい道と手段であるという。愛の深い仕方が何であるかは誰にでも分かることである。真剣にその人のことを考えているならば、誰の心の中にでも想起されて来るものである。凡人でも非凡な人にでも誰にでもすることが出来るのである。

 あとは出来るだけ、アガペーの愛を身につけるように心がけることである。アガペーの愛とは、一言で何時ならば、「神の愛」であるが、「相手には何も価値がなくても、ただ愛する」愛である。私たちの愛は、「相手に愛するだけの何らかの価値が、値打ちがあるから愛する」愛なのである。相手に価値がなくなれば愛さなくなってしまう愛である。これは一般にエロスの愛というが、エロスからアガペーへの昇華されるように願わなくてはならない。

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2010年9月 8日 (水)

癒し

 自然による癒しについて、書かれた文章がある。大阪樟蔭女子大学の教授で、精神科医でもある夏目誠氏の文である。

 私が始めて知った言葉もあり、興味深く読んだので、紹介したいと思う。

                      f 分の1、五感の満足

 自然による癒しの方法や効果について説明しよう。
一つは自然界における「f 分の1の揺らぎ」の作用であり、もう一つは五感による癒しの効果。
 自然界のゆったりとした流れ。それは f 分の1といわれ、一定の揺らぎのリズムとされている。川のせせらぎ、風のそよぎやことりの。さえずり、波光や蛍の光にも f 分の1の揺らぎがある。それは、脳波のα波の出現をよくし、リラクゼーションに繋がる。あるいは心臓の鼓動と同じリズムだから、自然に同調し、なごませてくれる。
 五感の満足について述べよう。
私は十和田湖・奥入瀬の渓流に沿って森林浴を兼ねて散策した。渓流は美しく、渦巻く。しかし、穏やかな場所では、せせらぎのゆっくりしたリズムが楽しめた。初夏の日差し、木漏れ日が心地よい。視覚の満足だ。鳥のさえずりが聞こえてくる(聴覚)。臭覚では、新緑や花の香りが心地よい。アロマテラピーに繋がる。木々に触れてみる。肌触りが心地よかった。触覚の充足だ。
 時折立ち止まりボーとして、川の流れに目をやり、またボーとした。このように、思考を休めれば、能の休息になると共に、心のエネルギーの充電になる。
 帰路、茶店で美味しいもの(味覚)を食べる。精神分析でいう「口唇欲求(唇の満足、それは愛情欲求を表している。それが満足すると、心が安らぐ)」の満足だ。自然の情景も加味されて、とても美味しい。
 また、これだけ歩けばいい運動になる。心地よい疲労だ。最高の休息であると共に、気分転換になった。
                夏目 誠

 f 分の1という言葉は始めて知った。一言でいうと、「自然界のゆったりとした流れ」、そしてそこに一定の揺らぎのリズムがある、それが f 分の1ということなのである。

 しかし、f 分の1であれ、五感の満足であれ、要はその人の心の持ち方、感じ方に掛かっているのである。

f 分の1の世界に入ろうとする、或いは五感の満足を得ようとかいう、それらに対する強い意思がなくては、「癒し」を体験することは出来ない。心は身体は癒されないと思うのである。

 このせせこましい、時間との勝負であるせかいでは、自らが癒しを求める強い意思を持たなくてはならない。         

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2010年9月 6日 (月)

刹那的閃き

 カール・ヒルティの文を読んでみよう。

 心に起る善への促しも、悪への誘いも、大抵刹那的な閃きである。
 前者に対しては、即座に応じて、われわれを助けようと差し伸べられた手を、実行によってつかまねばならない。
 後者に対しては、同じように即座に、断固たる意思を持って抵抗しなければならない。「かくて星にまで登ることが出来る」(ヴィルギリウス)のである。
      カール・ヒルティ 
        眠られぬ夜のために Ⅰ 十一月十日

 私たちは、善を瞬間的に、即座に、選び取る力を、ヒルティの言葉を借りるならば、善を刹那的な閃きを以って選び取る力を身につけなくてはならない。

 一方、悪に対しては、これも瞬間的に、即座に、拒否する力を、ヒルティの言葉を借りるならば、悪の誘いに対しては、即座に、断固たる意思を持って断る、抵抗する力をつけなくてはならない。

 瞬間的に選んだり、拒否する力は、簡単に自分のものにすることは出来ない。これは訓練でその力をつけていくことが出来ると思う。毎日の生活の中で、挑戦の気持ちを持って、瞬間的に、善を選び、悪を拒否する力を訓練によって身につけるのである。

 訓練を重ねて、善を愛し、悪を憎むことに徹すれば、必ず、習慣的に、また瞬間的に、善を愛し、悪を憎む心を身につけていくことになるのである。

 今から、訓練である。この心は必ずなるのである。

 

 

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2010年9月 3日 (金)

動感

  梅原猛氏が「動感」タイトルで文章を書いているが、一緒に読んで見たいと思う

        動感

 動きゆくものが人間にとって最大の不安であった時代があった。しかし、現代人にとっては、動かないことが最大の不安である。社会は激しく動く - この動く社会に一刻も遅れてはならない - それゆえ自分は動かねばならない。この三段論法が、現代人の活動欲の根源であるに違いない。
 仏像のような深い瞑想にふける顔や、能面のように静かな悲哀をたたえた顔は少なくなり、シャニムニ仕事を追っかける精力的な顔や、抜け目なく機会を捜し求める利口な顔が多くなった。休日すら現代人にとっては、雑踏の中に動く快楽を求める日時である。地下鉄のターミナルなど、全く平日のラッシュ・アワーと変わらない。人は人にせかれるままに先を急ぐ。しかし、人々は、こうして一体、何処へ行こうとするのであろう。
 むかし、哲学者ディオゲネスは忙しく戦争の支度をする市民の中で、誰よりも忙しそうにタルをまわして歩いた。彼はそれによって、市民たちの活動の無意味さを風刺しようとしたのである。いまディオゲネスをまねることは無益だろう。しかし、動感の中に生活する現代人の中に、静かな思惟への一マツの憧れが動いていることも、また否定できないことのように思われる。
   「現代人のある断面」から

 「動感」という言葉は余り聞いたことがない言葉であるが、広辞苑によると、「動きのある感じ」とか「動いているというような感じ」という意味で、「動感にあふれた絵」という具合に使用される。

 確かに、現代人はバスに乗り遅れまいと必死になって動き回っている、走り回っているようである。あのバス、このバスに今、乗らないと自分だけが取り残されてしまったように感じるのである。

 休日や安息日といわれる日曜ですら、人は動かないと安心しないのであろう。心が落ち着かないのであろう。「静」の中にこそ、平安とか落ち着きとかいうものがあるのであって、「動」の中に、それらを求めるのは本来可笑しいのである。どこかが狂っているようである。

 本来、自分ひとりの中に平安があるはずなのに、みんなと一緒でないと落ち着いておられない。これも可笑しいものである。

 まさに、本末転倒ではないだろうか。しかしそれがまかり通るのが現代である。

 しかし、梅原氏がいうように、現代人にも、静かな思惟への憧れがあることも事実である。

 今こそ、思惟することを取り戻さなくてはならない。動感の生活の中に、少しでも思惟する時間を作るようにしたいものである。そしてまずは己をじっくり見つめることである。

 

  

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