« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月28日 (木)

郵便配達夫

  ヒルティの次ぎの文に惹きつけられました。まず一緒に読んで見よう

 我々の出会うすべての人に、何かしてあげたり、言ったり、考えたりすることは我々の勤めである。
 そのとおりにしてみたまえ。
世間の人は(それを高尚と考えて)、親しみを込めた眼差しも向けず、冷淡なあるいは軽蔑的な気持ちで人をやり過ごしてれしまうが、そうしてはいけない。そうではなく、何も言う事がなく、するときがない時は、せめて何か良いこと、親切なことを考えなさい。こういうことはしかし、実によくあるだろうし、内面的発展の良い機会であろう。なぜなら、人々は我々のもとに来る使者である事が多く、神が常々用いる普通の郵便配達夫である。しかし、もちろん反対の霊の使者のこともある。
 しかし、あなたは、人々に対してどちらの霊の使者であり、配達夫なのであろうか。これが主要な問題である。
   カール・ヒルティ
     眠られぬ夜のために Ⅱ 五月二十九日

 ヒルティの言っていることは、誰にでも出来ることである。我々に心があれば、出来ることである。親切な言葉を掛けてあげる、役に立つことをしてあげる、一緒に考えてあげる、あなたにも私にも出来ることである。

 我々はそのようなことを配達する使者にならなくてはならない。我々は余り気が付かなかったかもしれないが、ヒルティの言うように、いつも我々のところにも使者が来ているのある。

 使者にも、二つの霊の使者があるという。一言で言えば、良き霊と悪しき霊である。我々は心して、良き霊の使者、郵便配達夫にならなくてはならない。

 我々が良き霊の使者、配達夫であるならば、我々から受ける人たちは生かされて、同じように良き使者となり、よきものを、言葉を伝える人になるのである。

 まず、我々が良き使者、良き郵便配達夫になるように努めていこうではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月26日 (火)

雨・・・英詩

 今回も英詩を鑑賞したいと思う。

 今回は、「新アラビアナイト」や「宝島」や「ジェキル博士とハイド氏」などでよく知られているR.L スティーヴンスンの 'Rain' という詩を詠みたいと思う。

             Rain
                                         R.L. Stevenson
        The rain is raining all round,
             It falls on field and tree,
        The rain on the umbrellas here,
             And on the ships at sea.

 〔訳〕

    雨が 何処でも 降っている        
         野にも 木々にも 降っている
    ここ 傘の上にも 降っている
         海に 漂う 船にも 降っている。

 「雨が何処にも降っている」 これは、雨を神様の恵みと捕らえている。神様の恵みはこの雨のように何処にでも降ってくる。野原にも、木々にも、傘の上にも、船の上にも、何処にでも雨は降ってくる。

 神様はこのように、万物に公平に恵を与えられる。

 この詩人はこのことを歌ったのである。

 教会の『聖歌」の中にもある。

  1 雨を降り注ぎ、恵たもうと  神は愛を持て 誓いたまえり

    (折り返し)
    夕立の如く、天(あ)まつ恵を  イエスよ 今ここに 注ぎたまえや

  2 雨を降り注ぎ、一人びとりに  奇しきながわざを 見させたまえや

     (折り返し)
    夕立の如く、天(あ)まつ恵を  イエスよ 今ここに 注ぎたまえや

 まさに「恵みの雨」をこの詩人は詠ったのである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月24日 (日)

英詩

  英詩を一首、鑑賞してみたいと思う。

           The Butterfry In Church   
                                      William Cowper

   Butterfry, Butterfry, why come you here?
      This is no place for you ;
   Go, sip the honey-drop sweet and clear,
      Or bathe in the morning dew.

   This is the place think of Heaven ;
      This is the place to pray:
   You have no sins to be forgiven:

      Butterfry, go away.

 〔訳〕

  蝶よ、蝶よ どうしてお前はここにいるの?
     ここはお前が来るところではない。
  行けよ、甘く清らかな蜜のしたたりをすすれよ
     さもなくば 朝の梅雨を浴びよ。

  ここは天国を思うところ
     ここは祈りをするところ
  おまえには許しを乞う罪もない
 
     蝶よ、飛んで行け。

 日曜日の礼拝中に、何処からか蝶が一羽、舞い込んで来たのだろう。静かに祈りを捧げている信者の横を蝶は飛び交う。自分も信者の中に加わろうとしているのも知れない。

 蝶は闖入者である。しかし蝶も神様が創造されたもの。私たちと同じように、神様から命を与えられ、神様の恵みのもとに生きているのである。

 蝶は神様に感謝の祈りを捧げるために、教会に来たのかもしれない。
 さあ、蝶よ、祈りがすんだら出て行ってくれよ。信者の声であろう。

 英詩を読むのも、数年振りであろうか。詩を味あう心を大切にして行きたいものである。


                                    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月21日 (木)

泉のほとり

 カンドウ神父の書かれたものをすこし長いけれども、紹介したいと思う。心温まる出来事である。

         泉のほとり

 国際平和会議というような結構な催しにケチをつける考えは毛頭ないが、由来こういう所で交わされるお偉方の意見というものは、複雑難解で、なかなか埒のあかないものらしい。たとえばインドネシアの始末なら、実地に苦労してきた両軍の負傷兵たちを突き合わせて話をさせてみたら、ずっと実際的解決案が出るかもしれない、と思うのは埒のない夢であろうか。
 連想とは妙なもので、ジュネーヴ会議からふと前の大戦のおかしな経験を憶いだした。
 ヴェルダン附近で数ヶ月坑道戦が盛んに行われたときのことである。坑道が爆破されるたびに生き残りが塹壕を掘り直しに行く。後退したり、前進したりするうち、ときには敵の前線と四十メートルの距離しか隔てぬほどにもなる。
 ある明け方、私は三人の兵を連れて前方の空塹壕を視察に出かけた。ふいに砲弾のうなりを聞いて、四人とも思い思いに地に伏した。炸裂の響きが止むと耳元に何かサラサラ音がする。見ると、直ぐ横の岩の間から清水が流れ落ちている。掌にうけて飲むと実にうまい。私は連れの兵を呼んで渇きをイ癒させ、思わぬ拾い物の在りかを見覚えて帰隊した。隊一同はこの吉報に湧いたが、さて問題はこれを汲みに行くことである。泉の位置は遠くないといっても、敵の陣地から三十メートルと離れぬ所にあるのである。初めの二、三回はどうにか忍んで汲んで来たが、直に怪しい往来と目をつけられ、弾丸の雨が降るようになった。しかし天与の宝庫を断念するのは惜しい。そこで、ドイツ語の出来る兵隊が塹壕から躍り出て、両手にバケツを振りながら叫んだ。「おい見ろ、武器なんか持っていないぞ。あそこに水が湧いているから行くんだ。水はみんなの物だ。君たちも行ったらどうだ。その間、俺たちも射たないから。」
 そして悠々と出かけると、相手は射撃を中止した。この男が無事に帰って来ると、向こうの塹壕から一人のドイツ兵が立ち上がり、オウといいながらバケツを振っている。こちらがオウと答えると、ノッシノッシと泉に向かって行った。二つのバケツを満たして帰りがけ、白い歯の輝く笑顔をわれわれにふり向けて頷いたのを忘れない。・・・この日から水汲みは毎日おッぴらに行われるようになった。朝夕交代に汲み合うその三十分余りは、射ち合いはお預け、めいめいトランプや繕い物をなどにのんびり平和気分を楽しんだものであった。
 とうじ、この話は誰にもしなかった。すれば軍法会議ものだったかもしれない。だが我々の行為は戦争そのものにこそ貢献しなかったが、のちにどうせ来る平和工作のためには意義ある行為だったと思わずにはおられない。第一、最初にバケツをさげて出た者の勇気と献身は、敵味方共に天晴れである。人間同士の善意に全き信頼を抱くことを、身を持って示した先達でもある。十人の敵を殺した兵よりもこういう人間にこそ、人類の名において勲章を与えてよいのではないか。

 読み終わった時、とても清々しい気分になった。


  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月18日 (月)

裁くなかれ

  カンドウ氏の日記を読んでいたら、次のような文章に出会った。

  2月9日  裁くことは断ち切ることである。言葉は、しばしば人を切る剣となる。人間の社会で、言葉は何と多くの災いの基となることか。
 「裁くなかれ」は、こう解釈できる。言葉を鋭利な剣のように使ってはならない。神の言葉だけが、剣の役を引き受けることが出来る。人の心の奥底まで見抜かれる神は、最高の審判者なのだから。
 われわれの言葉が柔和、理解、謙遜に満ちたものであり、それが人々を離れさせず、和合させるのに役立つように。すべて、この目的への努力は、すでに神の祝福を受けているのだ。

 カンドウ氏が言うように、裁くのは神である。神が剣を振るわれる。裁くのは神に一任することである。人間が人間を裁く、これは裁く側の傲慢に通じると思われる。自分を正しいとする、この傲慢さは何処から来るのであろうか。突き詰めて考えてみると、人は人は裁く事が出来なくなってくるものである。

 これもカンドウ氏が言うように、自分たちの言葉を柔和、理解、謙遜で満たすことであろう。私たちの言葉が剣になってはいけない。私たちの語る言葉が時には赦しにまで行き着く事があるのである。

 聖書から裁きについての言葉を見てみよう。マタイによる福音書の山上の垂訓の中に見る事が出来る。

   マタイによる福音書 

7:1 裁いてはいけません。裁かれないためです。

7:2 あなたがたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

7:5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月15日 (金)

情け・助け

  「情けは人のためならず」という諺は皆さんよくご存知の通りである。

 しかし、この諺は多くの人によって、間違って解釈されたりしている。即ち、「人に情けをかけるということは、決してその人のためにはならないものだ」といった按配である。情けをかけることによって却ってその人はそれに頼ってしまうというものである。

 確かに、そういう場合もよく見聞きすることである。その点では真実をついた言葉である。

 しかし、一般には、この諺は「人に情けをかけて置くならば、必ずその事が自分に帰ってきて、良い報いを受けるようになるものである」というものである。これが自然な考え方であろう。ある人に情けをかけるということは神様に情けをかけることに通じるのである。神様は情けをかけたことをよく知っており、それ故に、情けをかけた人に必ず報いて下さるのである。

               参照:マタイによる福音書 25章 31~44節

 アメリカのコンコードの哲人と言われたアメリカの詩人であり、思想家であるエマーソンがこの諺と同じようなことを言っている。

 誰であれ、他人を確実に助けようとすれば、自分自身をも助けることになるというのは、人生の最も美しい報酬の一つである。

 その通り、他人を助けることは、自分を助けることに繋がるのである。そして、彼はこれは人生の最も美しい報酬に一つであるというのである。

 人に助けの手を差し出してやる、情けをかけてやる、その事を意識しなくてもそういう行動を知らぬ間に行っていたというくらいになるように、まず最初の一歩を踏み出そうではないか。

   参照  マタイによる福音書 25章 31~44節

25:31  人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。

25:32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、

25:33 羊を右に、やぎを左におくであろう。

25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。

25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。

25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。

25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。

25:42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、

25:43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。

25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。

25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。

25:46 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

 

     

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月11日 (月)

体育の日

   今日は体育の日である。私には何かピーンと来ないものがある。私たちには体育の日は10月10日という事が強く刷り込まれているのである。

 しかし休みを多くしよう、そしてそれらの休みを連休になにあるようにしようと考え今まではたのである。

 今までは、たとえば、敬老の日は9月15日、体育の日は10月10日と決まっていたのであるが、今日は三連休にするために、敬老の日は9月の第3月曜日に、体育の日は10月の第2月曜日にしてしまったのである。ない歳、曜日は決まっているが日にちは決まっていないということになったのである。

 私たちのような年配にとって、なぜか祝日らしくなくなってきたのである。

 そもそも日本は休日が多すぎる。知らぬ間に祝日も増えてしまい、その分、働く日が少なくなって来ているのである。

 昔から日本人は非常に勤勉な国民として、世界も認めていたのである。そう、自他共に日本人は勤勉であると認めて来ていたのである。その勤勉さは今は何処に行ってしまったのであろうか。

 聖書は言っている。

   創世記 二章 一~三節

  2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、その
   すべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこ
      の日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたか
      らである

   聖書の言葉を私たちはよく読まなくてはならない。

 神は6日働かれて、7日目に休まれたのである。週に一日休むのが基本であって、後は状況によって決めればいいかと思うが、いまの日本の休みのとり方には一考を要するのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

体育の日

   今日は体育の日である。私には何かピーンと来ないものがある。私たちには体育の日は10月10日という事が強く刷り込まれているのである。

 しかし休みを多くしよう、そしてそれらの休みを連休になにあるようにしようと考え今まではたのである。

 今までは、たとえば、敬老の日は9月15日、体育の日は10月10日と決まっていたのであるが、今日は三連休にするために、敬老の日は9月の第3月曜日に、体育の日は10月の第2月曜日にしてしまったのである。ない歳、曜日は決まっているが日にちは決まっていないということになったのである。

 私たちのような年配にとって、なぜか祝日らしくなくなってきたのである。

 そもそも日本は休日が多すぎる。知らぬ間に祝日も増えてしまい、その分、働く日が少なくなって来ているのである。

 昔から日本人は非常に勤勉な国民として、世界も認めていたのである。そう、自他共に日本人は勤勉であると認めて来ていたのである。その勤勉さは今は何処に行ってしまったのであろうか。

 聖書は言っている。

   創世記 二章 一~三節

  2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、その
   すべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこ
      の日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたか
      らである

   聖書の言葉を私たちはよく読まなくてはならない。

 神は6日働かれて、7日目に休まれたのである。週に一日休むのが基本であって、後は状況によって決めればいいかと思うが、いまの日本の休みのとり方には一考を要するのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 5日 (火)

平和を叫ぶ

 平和を求め、平和を叫び続けている人たちをよく見かける事がある。彼らは非常に熱心に、平和を求める。平和である世界を願い求める。そのために叫び続ける。平和を求めるに饒舌になる。

 ヒルティの文章に次のようなのがある。

  人間性や永久平和について、あまり饒舌であってはいけない。
  あなたは、会う人ごとに、良い事があるように願っているであろうか。そうであれば、あなたは人間的で、親切な気持ちでいる訳だが、そうでなければ、それは単なる常套語にすぎず、会議場には向くものの、我々には向かない。
       カール・ヒルティ
        眠られぬ夜のために Ⅱ 六月五日

 私たちは常日頃、人の対して、良い事があることを願い、祈るだけでいいのである。それが世界平和にも通じるのである。平和、平和と振りかざすとも、日常の私たちの心一つで、平和は可能であるのである。

 ヒルティがいう如く、平和を希求する余り、それが生きている人々には届かず、会議場向きに過ぎない時が非常に多いのである。

 言い換えれば、足元の平和を、周囲の平和をまず希求することだある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 1日 (金)

坂村真民の言葉

 しばらくご無沙汰していました。今回は、言葉だけですが、紹介したいと思う。

 坂村真民氏の言葉である。

           鈍刀を磨く

     鈍刀をいくら磨いても
     無駄なことだというが
      何もそんな言葉に
     耳を貸す必要はない
     せっせと磨くのだ
     刀は光らないかもしれないが
     磨く本人が変わってくる
     つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
     磨く本人を
     光るものにしてくれるのだ
     そこが甚深微妙の世界だ
     だからせっせと磨くのだ

        仕事

     頭が下がるのは
     年齢でもなく
     学問でもなく
     肩書きでもなく
     その人がしている
     仕事である
     貧しい人のため
     苦しんでいる人のため
     希望を失った人のため
     身体を張って
     生きている
     マザー・テレサのような人である

        真の人生

     靴屋さんなら、人が喜んでいつまでも履いてくれる靴をつくる。食べもの屋さんならば、人に喜んで楽しく食べてもらえるものを作る。そういう生き方で生きて行く、それが真の人生というものではなかろうか。

     
     

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »