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2010年11月26日 (金)

善から引き離すもの

 ヒルティは「善から引き離すもの」ということで次のような文を書いている。

 人間を最も甚だしくすべての善から引き離すものが二つある。これは誰でも一生に一度や二度は自分で経験しているであろう。先ず、何か悪いことをしようとする時、これは何もそう悪いことではない。世間一般の慣わしであり、だから、これくらいのことをしたからといって、善良な人間でなくなるわけでない、といって自分を言いくるめる。次に、その悪事をやり終えた途端に、今更改心しても赦して貰えないと思えてくる。とりわけ、この後の方の考え方は常に克服しなければならない。神はどんな後悔でも聞き入れて下さる。ずっと後になってからでも、また何度も悪へ逆戻りしてからでも、赦して下さる。我々の主は、助力と平和を求めて来るどんな人間でも、突き放しはされない。もう一度はっきり言うが、どんな人間をも、例外なくどんな人間をも。
 このような経験をしたことのある人たちが、後になるとかえって、最も信頼できる人になることがよくある。というのは、彼らは一方で享楽生活の惨めさを、他方で平和の幸福を、身を持って深く学び知り、そのどちらがまさっているかを悟っているからである。

 参照:
   イザヤ書一章十八節
   1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

   イザヤ書四十三章二十五節
   
43:25 わたしこそ、わたし自身のために/あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。

   イザヤ書一章十八節
  44:22 わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。

   マタイによる福音書 十一章二十八~三十節
    11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
   
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
   
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

     カール・ヒルティ
      眠られぬ夜のために Ⅰ 九月一日

 ヒルティの言葉と聖書の言葉を十分に味わってみて下さい。

  
   

        

   

   

   

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2010年11月22日 (月)

生死

 生死ということについては、人間は関心がありながら、なかなかそこまで踏み込んで考えることをしようとしない。いつかは、生死の問題には対決しなくてはならないときが来るにも関わらずである。

 ここに、二人の言葉を見てみよう。

 充実した一日が幸せな睡眠をもたらすように、
 充実した一生は幸福な死をもたらす。
        レオナルド・ダ・ビンチ

 死は人生の終末ではない。
 生涯の完成である。
        マルチン・ルター

 実は、恥ずかしいがら、私はこの二人が同時代の人だということに全然気がつかなかった。

 この二人の言葉はある意味では同じようなことを言っているように思われる。

 上記の言葉からも分かるかと思うが、二人とも死というものを恐れていない。

 人生の捕らえ方の問題かと思う。
ダ・ビンチは充実した一日が快眠、幸せな睡眠を生み出すと同じように、充実した一生は幸せな死をもたらすという。充実した一日の積み重ねが充実した一生に繋がるのである。

 ダ・ビンチは充実した一生は永遠の安息を与えてくれると信じていた。死をも永遠の安息に繋がっているものとして捕らえており、死に対する恐怖はないようである。

 一方、、ルターは人生を終末と捕らえていないところに、死に対する恐れはなくなっているのでる。

 勿論、ルターの場合は、神を信じ、イエス・キリストを信じていたから、永遠を思い、死を乗り越えた、死に勝利した強い信仰が彼の人生の土台となっているのである。

 死を「生涯の完成」と捕らえる、積極的な生き方、神を信じるということが死を恐れない、それ以上にしに打ち勝った生涯を送ったのである。

 二人の行き方に学び、この二人の言葉に、謙虚に耳を傾けてみようではないか。

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2010年11月18日 (木)

小言

  小言について少し学んで見たいと思う。

小言についての新島襄の言葉に耳を傾けて見たいと思う。

    人に小言を言われた時に腹を立てるな。
   腹の立った時小言を言うな。
                 新島襄

 小言というのは、広辞苑によると、「人を咎める言葉・非難がましい言葉」という意味であるが、小言を自分に対する有り難い言葉として受け止めるか否かで、小言を聞く人を変えてしまうものである。

 小言に腹を立てて、カッとしてしまうと、その小言の真意が全然分からなくなってしまい、自分を失ってしまうことになるのである。

 勿論、小言にもいろいろあって、単に相手の感情がむみきわき出されたものということにもなりかねない。従って、小言を見極めるということ、見極めることが出来るだけの冷静さと、識別力が必要であるが、いつでも、小言を有り難い言葉として受け止めようとする気持ちは非常に大切であろう。

 一方、腹を立てて言う小言は、これは非常に感情的な言葉になってしまうものである。当然、そういう言葉であれば、聞く人は反撥して来るものである。自分が腹を立ててしまったら、当然、相手を説得、納得させるような言葉・小言をいうことはできないであろう。

 新島襄は素直な心のふれあいを常に望んでいたのだが、その心を持って小言を言うならば、小言を聞く相手も、心を開いて小言を受け止めるのではないだろうか。

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2010年11月16日 (火)

政治家

  二人の政治家の言葉を読んで見たいと思う。

 一人は、ケネディ大統領である。

  私は責任を持って物事を行い、うまく行かなかった時には、一身にその責任を引き受ける大統領になりたい。

  もう一人は、チャーチルの言葉である

  議会に対しても私は、血と労苦と涙と汗の他は、私は何も提供するものを持たないと申したい。

 この二人の政治家は、アメリカと英国の有名であるが、有名になるには有名になるだけのことがあるのである。 

 二人には国民のために、国のために命をとして、政治に取り組んであるのである。

 今日の、菅首相を見ていると、本当な情けなくなってくる。国民はどうしてこのような人を、どうしようとしているのであろうか。

 一国の首相が会談で、

相手の顔を見ないで、メモを読んでいる。 その国のトップ同士が会談しtれいるのである。相手の目も見ないで、メモばかり見ている。菅さんはおどおどしている感じしか見えない。一方、中国の湖錦濤は悠然と構えている。菅さんが何を言ってもその効力は非常に薄いものである。

 ロシアのメドベージェフ大統領に対しても、北方領土・国後訪問について、抗議はしたものの、日本国民の感情にそぐわないという程度で、「日本固有の領土」という言葉は一言もいない。却って、ロシアの大統領の方が北方領土はロシアの領土だと公言している。世界の真実を知らない人たちがこの状況を知れば、北方領土はロシア領と思う人が非常に多いのではないだろうか。

 菅首相にはケネディ大統領やチャーチル首相の伝記や著書や言葉を読んで、学んで欲しいものである。

 政治家のことを、英語では、 statesman と politician の二つがあるが、後者の politician には政治屋という意味を表わす時がある。

 菅首相を政治屋とまでは言わないにしても、非常にスケールの小さい政治家に見えて仕方がないのである。

 日本を救う救世主はいないのであろうか。

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2010年11月12日 (金)

真実

  真実とはどういうものかについて、カミュは次のように書いている。

 真実は、光と同様に目をくらます。虚偽は反対に美しいたそがれ時であって、すべてのものをたいしたものに見せる。   カミュ

 真実と虚偽についてうまく表現された言葉であろう。

 私たちは太陽を見ると、目が眩んでしまう。目をそらしてしまう。余りにも眩しいから、ついそうしてしまうのであろう。なにものでも、その光源を見つめると、眩し過ぎて目をそらせてしまう。

 真実にたいしても、私たちはつい目をそらしてしまいがちである。己にやましいところがあれば尚更のことである。

 私たちは真実を直視しなければならない。これが普通の姿勢なのである。

 ところが一方、虚偽にたいしては、美しく、綺麗に見えてくるのである。カミュが言うように「虚偽は黄昏どきである」という。黄昏を見たことがあるでしょう。あの美しさはなんともいえないくらいに,見る人の目と心を引くものである。心が奪われてしまう。黄昏にはそういったところがある。

 虚偽も黄昏と同じである。虚偽は真実を隠してしまい、物を大きく見せてしまう。人はそれに心奪われてしまうのである。虚偽に惑わされてはならない。

 私たちは真実と虚偽とを見分けるだけの賢明さを身につけていくようにしなくてはならない。

 真実を見つめても、真実を前にしても、目がくらくらするようではいけないのである。真実をいつでも直視できるような自分であるように一方で自分を鍛えていくよう心がけなくてはならないのである。

 カミュの思想というのは、不確実性に満ちた人生は不条理だと言う。真実と虚偽の関係も不条理だと言いたいのであろうと思う。

 人間の住む世界は不条理だと言う。しかし本来は私たちの世界には神の摂理があり、働いているのである。不条理ではないと思うのである。

 しかし私たちは不条理だと言ってあきらめたり、しないことである。神の摂理が働いているということを知り、神の摂理の中に生きるようにして行かなくてはならない。

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2010年11月 8日 (月)

宗教

 「宗教はアヘンである。」と言った人もいますが、人間にとって宗教というものは絶対必要なものであり、なくてはならないものであろう。

 英国の思想家であり哲学者であるトーマス・カーライルは次のようなことを言っている。

 宗教は不滅の星である。地上の星が暗黒を加えるにつれ、天上においてますますその光輝を増す。 カーライル

 「地上の夜が暗黒を加える」というのは「悪」が社会に蔓延る状態のことある。

 カーライルの世は英国産業社会のひずみが大きく、これに彼は注目して、宗教の必要を痛感したのであろう。そのような状況の中から出てきた言葉である。

 ちなみにカーライルは超自然的なもの(神や霊魂)が自然の本質であるという思想の持ち主である。」

 今の世も正に悪が社会に蔓延っている社会であろうが、悪が社会に、世の中に蔓延って来れば来るほど、神を説く、天国を説く宗教はますますその光の輝きは増して来るものである。

 そこに宗教の出る幕があるのである。

 人は宗教に心を寄せ、自分という人間を宗教の場において、思いを馳せなくてはならないの

である。

 その中にあって、社会を、人間を、善を、悪を捕らえ、考えてかなくてはならないであろう。

 更に大切なことは、自分は生かされいるのだ、自分を生かして下さる方がいるのである。その方に人間は帰依しなくてはならない。

 私の場合は、自分が帰依するのはイエス・キリストであるが、一人一人がよすがとするものを求めていかなくてはならない。真剣にである。

 

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2010年11月 5日 (金)

古代の智慧の最も美しい表現

 ヒルティの言葉を読んでみよう。

 古代の智慧の最も美しい表現は、ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの有名な日記の一節に含まれている(この日記は、皇帝が急死した際に、その長袍(トーガ)の襞の中から発見されたと伝えられている)、「たえず何かしら人びとの役に立つ者になれ。そしてこのような不断の鷹揚さをおまえの唯一の楽しみとせよ。しかも、時おり神性へ一瞥を捧げる義務のあることを忘れるな。」
 
最高の地位にある人が、もっぱら哲学的見地から、これに勝ることを言い、かつ実行した例は、かつてなかったであろう。フリードリヒ大王あたりが、わずかにこれと比較されうる唯一の人物であるかもしれない。
 けれども、このような「神性」を心に抱く生活、もしかしたら全く神性などとは関わりない生活は、なんと貧しいものであろう。
   カール・ヒルティ  眠られぬ夜のために 四月三十日

 人の役に立つことをする事が、自然と出来るなら本物であろう。最初は意識しなくてはなかなか出来ないことかも知れないが、自然と人の役立つことをしているといった段階までに高められたいものである。

 そしてヒルティが言うように、時に創造者を思うことである。自分は創られたものであり、恵によってここに存在しているという思い、この想いが大切なのである。この思いの故にまた人の役立つ事が出来るのであるとも言えるのではないだろうか。

 マルクス・アウレリウスの言葉をいつも心に留めておきたいものである。そして実践あるのみである。

 

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2010年11月 2日 (火)

英詩 John Keble

  John Keble の詩を読んでみよう!

       All Things Bright And Beautiful

   1  All things bright and beutiful,
          All creatures great and small,
       All things wise and wonderful,-
          THe Lord God made them all.

   2  Each little flower that opens,
           Each little bird that sings,-
       He made their glowing colours,
           He made their tiny wings.

   3  The purple-headed mountain,
           The river running by,
       The morning and the sunset
           That lighteth up the sky,

   4  The tall trees in the greenwood,
           The pleasant summer sun,
       The ripe fruits in the garden,-
           He made them every one.

   5  He gave us eyes to see them,
           And lips that we might tell
       How great God Almighty,
           Who hath made all things well.

〔訳〕

  1  明るいもの 美しいもの
        大小生きとし生けるもの
     賢いもの 不思議なるものー
        みな 主なる神さまが造られた。

  2  咲き匂う小花 それぞれに
        歌う小鳥 それぞれにー
     神は燃える色をば造られた、
        小さな翼をば造られた。

  3  紫色の山の嶺
        あたりを走る河の水
     また暁も 夕空を
       茜に染める夕の陽も

  4  緑の森の高い木も
        また心地よい夏の陽も
     園の熟した果物もー
        みな人のため造られた。

  5  かかるものを見る眼(まなこ)
        万物(よろず)正しく作(な)し給う
     全能神の偉大さを
        たたえる口をも造られた。

 宇宙の森羅万象は素晴らしいの一語に尽きるのではないだろうか。我々が心眼を開いて、森羅万象を見る。この詩の言葉を借りれば、 見れば見るほど、bright(明るい)、 beautiful (美しい)、 wonderful (不思議な・素晴らしい) に尽きるのである。

 この森羅万象がどのようにして出来たのであろうか。どのようにして出現したのであろうか。

 どうしても全知全能の神が神意によって造られたとしか思えないのである。

 この詩人はその心境を詠ったのであろう。


   

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