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2010年12月17日 (金)

 カンドウ神父が若い頃、年は生意気盛りの頃、フランス軍の青年将校だった彼は従軍中の休暇を利用して旅行していた時、あるレストランで一人で食事を済ませ、コーヒーを飲んでいると、一人の中年の司祭が近づいて来て、席を共にしていいかと尋ねて横に座り、話し始めた。「二十代を越えた人間の自由意志から出るイエスとノーは如何に重大であるか」ということを非常に熱心に語り始めた。

その後、店を出て道を歩きながらも彼は語り続けた。大まかな内容は、「一つの理想を有する者は、自己の存在が周囲に何を与えているかを反省せねばならない。身近に幸福をもたらせぬ者がどうして社会に貢献できようか。人間の価値はその実存の密度と愛の深さによって定まる。愛に生きる人間が一人でも多くなるほど、この世は天国に近くなるであろう。」

 別れ際に、「今日の会見が火の記憶となるように」との不思議な一句を残した。彼は言う、「如何にもこれらの言葉は火の如く私の若い魂に食い入り、人生観を一変せしめ、ついに一大方向転換を為さしめたのだった」と。

 ちなみち、カンドウ神父は、バイヨンヌ大神学校を出てから、サン・シール士官学校を出て、第一次大戦に参戦しているのである。

 この旅の司祭は、世界各国に各国語で熱弁をふるい、神の愛の使徒の雷名を轟かしつつあったペルー生まれのマテオ・クラウレー師であると知ったのは後日のことであったと、カンドウ神父は語っている。

 以来、カンドウ神父は、折に触れ、クラウレー師に指導を仰ぎ、一生の師として来たのである。

 よき師との出会いである。

 フランスの思想家、ジャン・ギットンは「真の師に出会うことは人生三十年を儲けることだ」と言う。

最後に、カンドウ神父は言っている、「人生は四十か五十からか。まだ生き甲斐を見出さぬ限り、人生はこれからといえよう。若い老いたる’これから’の人々に、やがての日、真の師との出会いを祈る次弟である」と。

 よき師に出会おう。

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2010年12月15日 (水)

マックス・ウエーバー

 マックス・ウエーバーという人は非常に多才な人である。政治から経済、農業から宗教と、いろいろな分野で活躍し、多くの作品を書いている人である。

 誰でも知っている作品は、「職業としての学問」であろうか。

 この本の中の一節である。

 自己を滅して己の課題に専心する人こそ、その仕事の価値の増大と共に、その名を高める結果になる。
          職業としての学問

 彼が学者と、教職者と政治家について語っている言葉に耳を傾けてみよう。

 彼は言う、学者とは研究と同時に、霊感による独創が是が非でも必要な職業である。従って、全霊を傾けなくてはならず、売名的なことやあまりにも世俗的なことを考えることなどもってのほかで、正に愚の骨頂である。その意味では、似非学者もかなり多いのではないだろうか。

 教職者たるもの、その本分は知的廉直にあり、自分の知識や学問上の経験を聞く者の役に立つようにするべきである。特に日教組に聞かせたいが、自分の政治的見解を聞くものに押し付けてはならないという。

 政治家について言う、政治家には情熱と同時に冷静な見解が求められるが、虚栄心が一番いけない。また権力は政治の原動力であるが、それにかしずくということほど、政治の力を損ない、ゆがめるものである。

 今、菅さんと岡田さん、小澤さんと輿石さんが正に権力闘争をしている。国民そっちのけである。一番悪いのは小澤さんかなあ、勿論、菅さんの指導力のなさ、外交と安保と内政での失態はどう責任を取ってくれるのであろうか。

 法人税を5%下げるという、今の日本経済では、これはいいことかとも思うが、肝心の財源が足りない。子供手当てもそうである、財源が足りない。結局は赤字国債の乱発か、国民の犠牲かである。これしかないと思われる。

 支持率が1%になっても、政権は維持するという。鳩山さんは国家のため議員は辞めないという。また鳩山さんやめないでくれと陳情書を渡す、馬鹿な民主党議員がいる。

 マックス・ウエーバーの言葉には程遠い人たちである。この人たちが日本丸の舵を取っている。何とかしてくれである。

  関厚夫さんに負うところ多い。有難うございます。

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2010年12月12日 (日)

何も持っていないようで

 私は終戦の時、小学2年生であったが、終戦後の厳しい時代を過ごし、バブル期を経験して来、今はちょっと厳しい時期になっているかもしれないが、一応自分としては今までの人生を肯定し、満足しているかなあというところです。

 しかし私の経験して来た時代もそうであったが、その時代の世相の故に、厳しい、不運な、寂しい、時には悲しい、辛い経験をして来た。また個人的にも同じような経験をしてきて、自分に、時代に失望したりしたことがある人も多いのではないだろうか。

 時に、不幸に見舞われるということは、そのことで人間が磨かれるんだとかいう人もいるが、まるで人ごとのようにそんなことをいい、そういう人は全く無責任な人である。

 しかし聖書を読んでいると次のような言葉に出会ったのである。

   コリント人への第二の手紙  六章 十節

  悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

 えっ、こんな生き方もあり、こんなこともあるんだと思わざるを得ない、ホッとした思いにしてくれるのである。

 ここでは、悲しさや貧しさなどを全く否定はしていないのである。それはそれとしてそのまま認め、只、その中にある暗さや惨めさに落ち込まないで、肯定的に、それらと向き合っているのである。

 悲しさや貧しさなどは人々の生活に大きな影響を及ぼすであろうが、しかしそれらは究極的に人間を支配するようなtからは持ち合わせていないということである。必ず突破出来るということである。

 人間には他の動物にはない考える能力があり、その能力が自分たちが遭遇する、いろいろな不運な、不幸な出来事に対処し、自分の歩むべき道を選び取っていく力があるのである。

 前述の言葉には、勿論、信仰的な側面から捉えて行くこともあるのであるが、「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」という考えにることはどのような人にでも備わっている賜物であると思うのである。

 そのような能力を持つように、そのような心を持つように、努めて行こうではないか。それは私たちに与えられた賜物であるから。

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2010年12月 9日 (木)

本気

 「本気」という言葉をこのところ聞いていない。

 「それって、本気で言っているの?」「昨日は本気で怒ったよ」、このように実際にもよく使われているのだろうが、余り耳に入ってこないのである。

 「本気」という題の詩に出くわした。ここに紹介したいと思う。

         本気

 本気になると
 世界が変わってくる
 自分が変わってくる
 変わってこなかったら
 まだ本気になっていない証拠だ
 本気な恋
 本気な仕事
 ああ
 人間一度
 こいつを
 つかまんことには
             坂村 真民

 「本気」とは辞書的には「真剣な気持ち」ということであるが、実際の生活の場では、もっと奥深く、心に迫ってくる言葉であって、言葉では表現出来ないようなところがあるようである。

 「死に物狂い」が近い言葉かと思うが、どれだけの人が「本気」で、どんな事であれ取り組んで来ただろうか。殆どいつもと言っていいくらい、何歩か前で終えてしまっていることが多いのでらる。

 世の中も、自分も何ら変わっていないのである。

 何事でも、事態が進むためには、まず自分が変わることである。自分が変わらなくては事態は進まない、変わらないのである。

 自分が変わるためには、がむしゃらに、「本気」で取り組むことである。

 そして「本気」でする時には、無私、私利私欲から遠く離れなければ成らない。そのような状態の時、本気度もぐっと増してくるのではないだろうか。

 板村氏は「人間一度 こいつを つかまんことには」と言っているが、我々も一度、「本気」というものを掴み取り、世界を、自分を変えてみたいものである。いや、変わらないといけないであろう。

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2010年12月 7日 (火)

ヘボン式ローマ字

 医師で、宣教師で、ヘボン式ローマ字を作成した人ということくらいでしか知らなかったヘボンについて関厚夫氏が書いていることをそのまま転記したいと思う。彼について余りにも知らなかったし、このような人であったかと感銘したものだから、、、。

 「日本人は驚くべき国民です。西洋の知識と学問に対する好奇心は同じ状態にある他国民の到底及ぶところでは有りません。」

 幕末が血煙にまみれる元凶となった「安政の大獄」がその最終段階にあった頃だった。医師、ジェームス・ヘボンは宣教師として神奈川の地を踏んだ。

 「わたしの知っているわずかばかりの知識から判断して、日本語は中国語より遥かに優れている」。これは、八ヶ月目の感想。また冒頭は、それから二年後、幕府から派遣された大村益次郎ら九人の「高官」に英語や高等数学教育を施した時の感嘆だ。
 ヘボンの日本への献身は、神から授かった使命感によって支えられていた。だから、外国人が最も敵視され、命も危うかった時代にも屈することなく計三十三年間、日本に留まった。そしてローマ字表記を大成し、最初の本格的な和英・英和辞典を編纂する。
 南北戦争の報に対して、「米国民は神の鞭を要するのです。その時が来たのです」と綴ったヘボンにとって、日本は真の故郷となった。明治二十五(1892)年、七十七歳で帰国する直前、こんな惜別の書簡を残している。「わたしどもの年になって、“故郷なき旅人”となって世の中に出て行くのは、本当に辛いことです。」

 日本を愛したヘボン、日本のために尽くしたヘボン、幕末から明治維新の動乱の時代に生きたヘボン、外国人だったが日本人になっていたのではないだろうか。

 

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2010年12月 3日 (金)

最もよきもの

 バートランド・ラッセルの言葉を読んで見たいと思う。私にとっては、バートランド・ラッセルという人は、長文英文解釈の問題集の中で出会う人物であった。彼の英文は大学の入試問題にもよく使われていた。

 彼は英国の数学者であり、哲学者であり、核廃絶運動の先頭に立っていた人である。湯川秀樹博士やアインシュタイン博士など世界最高の科学者・知識人11人連盟で核廃絶の声明文を出したりした。

  私は、どんなに前途が多難であろうとも、人類史の最も良き部分が未来にあって、過去にないことを確信している。
   バートランド・ラッセル  「自伝的回想」より

 彼は未来にこそ最もよきものがあるのであって、過去には決してないと、過去を振り向かず、常に未来に向かって歩み続けたのである。

 残念ながら、核廃絶ということは、ある意味ではますます遠のいている感じであるが、そのようなことを言っていては、ラッセルに叱られることであろう。

 彼は、1970年に亡くなったが、今未だ生きておったならば、なお一層の努力を核廃絶運動に払うことであろう。

 今日、北朝鮮やイランが核問題で大きく取り上げられているが、彼らには、核兵器を持つことに執心しており、聞く耳を待たないようである。なんとしても阻止したいものである。

 この件では、中国が大きな鍵を握っているのであるが、今回の北朝鮮の韓国への砲撃の問題や北朝鮮がウラン濃縮施設を公開した問題で、国連安保理が北朝鮮を名指しで非難する「報道機関向け声明」の発出を検討したものの、中国の反対で見送られることになった。報道声明は議長声明よりも更に弱い形式とされるがそれでも合意を見ることが出来ないのである。

 北朝鮮を説得しなくてはならない中国は逆に正に北朝鮮の問題では癌といってもいいくらいである。

 中国は自分の覇権だけを考えておる。中華思想を完成しようということである。尖閣諸島の問題も中華思想の結果である。

 ラッセルが上記の文の中でいう前途の多難の中には、中国の「無限に恐ろしい軍事力」があるのである。

 未来を信じて行こうではないか。

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2010年12月 1日 (水)

考えるということ

 パスカルは「人間は考える葦である」と言っているが、その通りであろう。

 ところで、イギリスの詩人であるコールリッジの言葉に次のようなのがある。

 君がもし考えることをせぬ人間であるとすれば、いったい君は何のための人間であるのか。
                 コールリッジ

 人間の特質は「考えること」であるという。まさに、考えることによって、自分の存在理由(レーゾン・デートル)や生きる意義などを認識することが出来るのである。考えることが我々の存在を存在としてあらしめるのである。

 考えることを放棄したとたん、ある意味で人間であることをやめることになるのである。

 コールリッジは分かりやすい言葉で語っているが、哲学的に言うならば、デカルトの言葉に突き当たるのである。

   我思う、ゆえに我あり。  デカルト

 このデカルトの言葉の意味することは次のようである。
  「これまで真理とされてきたこと、或いは自分がみたり聞いたり触れたりすることのすべてを疑って行った時、残るのは思索している自分であり、これだけは存在を疑うことは出来ない。」ということであるようである。

 これはデカルトの哲学の基礎を成す考え方を示していると言われている。

 哲学としては、「我あり、ゆえに我思う。」というのはなさそうである。
でも我々庶民・平民にとっては、このようなケースがあってもいいように思うのである。

 ケースバイケースで、「我思う、ゆえに我あり。」「我あり、ゆえに我思う。」を両用したらいいと思う。(反対意見が来そうである。)

 要は、考えるということが非常に大切であって、考えることがなくなったら、人間の存在がぐらついて来るのではないだろうか。

 脳を使おう。脳を活性化しよう。頭を使おう。

        

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