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2011年2月26日 (土)

奏でるように

  アリストテレスの言葉にちょっと耳を傾けてみよう。

 ハープを演奏することによってハープ奏者になる。それと同じように、私たちは正しい行いをすることによって正しい人間になり、自らを律することによって自制心が身につき、勇気ある行動を取ることによって勇敢になる。
        アリストテレス

 アリストテレスの言葉によると、人間というものは自分が奏でるように、奏でるようになるということになる。

 ハープを奏でれば、ハープ奏者に、ヴァイオリンを奏じるなら、ヴァイオリニストになり、要するに、何かの楽器で、音楽を演奏するならば、その楽器の演奏者になるというのである。

 この事は、スポーツの分野でも、仕事に取り組む時でも、いかなる時でにでも当てはまるのである。何かに真剣に取り組めならば、そのようになる、そのような人間になる。

 自分が奏でようと思うように、奏でることになるのである。

私たちは善を行うという土台に立って、困っているものに、手を貸す、親切にするならば、親切な人、情のある人になるのである。

 善をなそうとする人は善をなすようになるのである。

 逆のことも言えるであろう。
もし、悪を行おうとするならば、その人は悪人になるであろう。人に対して不親切にしていくならば、その人は薄情な、情の薄い人間になってしまうであろう。

 従って、私たちは善志向で一つのことに取り組まなくてはならない。その時、私たちは善に裏づけされた人間に成長していくであろう。

 私あちは何をするにも、善志向で、行動しなくてはならない。私たちの人生は正しき人の道を歩んでいるであろう。

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2011年2月23日 (水)

仕事

  たまたまトルストイの文の中で私の名前が出て来ていた、たったそれだけの理由で、今回はトルストイの言葉を見てみたいと思う。

 人間の仕事は、ただ自分の秩序を乱さないことにある。それはちょうど、斧がいつも磨かれてピカピカ光っていなければならないのと同じことである。
       トルストイ 「日記」

 仕事において、自分の仕事での意気込みとか計画など、自分の秩序の元で仕事を遂行しようとする時に、これは真に自分の仕事といえるのである。

 私の家にも斧がある。勿論、私は斧を今使うわけでもないから、錆びてはいないけれども、ピカピカ光っていることもない。

 しかし、山などで斧を使って働く人にとっては、斧を大事にして、いつも使っても、斧が存分の働きをすることが出来るように、磨いて、ピカピカにしておくものである。

 その斧が磨かれていなければ、その働きを全うすることは出来ない。

 仕事をするときも、何時も仕事での秩序というものを大事にして、仕事に取り組まなくてはならない。自分なりの秩序の下で、仕事がなされる時、その仕事は成功するのである。

 仕事に自分なりの秩序を持って取り組んで行きたいものである。

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2011年2月21日 (月)

人間?じゆう

 最近の新聞やテレビの報道を聞いていると、人間の命が非常に軽く見られるようになって来ているように思われて来るのである。

 ここに、ジョン・ロックの言葉がある。彼の言葉を聞いて見たいと思う。

 すべての人は、万人が平等で独立しているのだから、誰も他人の生命、健康、自由あるいは所有物を損ねるべきではないということが分かるのである。なぜなら人間は皆、唯一全能で限りない知恵を備えた創造主の作品だからである。  ジョン・ロック  「統治論」

 小さな赤ちゃんから大人に至るまで、命が奪われていくのは日常茶飯事のことと言っていいくらいだし、現在のアラブの情勢では、人権や自由のためのデモが行われているし、北朝鮮や中国の人権無視、弾圧など、ロックが言っているのに反して、人間の命や健康や自由が侵され、蹂躙されているのである。

「すべての人は、、、ということが分かるのである」とロックは言っているが、わかっていない人が非常に多いだけに困ったものである。

 私たちは被造物、造られたものであるという認識、自覚が必要なのである。

彼の言葉をよく読んで、他の人を尊重・尊敬する者になるべく努めたいものである。

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2011年2月19日 (土)

老年

  私たちはとっくの昔に老境に入ってしまった。

 即ち、老年になった。老年を迎えたということである。

 老年を迎えるに当たり、日々を溌剌と、明るく、老年を過ごそうと思ったものである。年を取ると共に、身体も気持ちを老けてしまっては、人生これでおしまいかと思われる。

 体が若い時に比べて衰えていくことは自然の理であって、これはやむを得ないことである。

 年を取って来たといって、心や体の動きまで年を取ってしまってはならない。精神は青年であり、若くなくてはならない。夢も希望もますます抱き、描かなくてはならない。そしてその実現のために全身全霊、努めなくてはならない。そのような志を大きく持って、老年期を生き抜いていこうという強い意思が必要である。

 「老骨を鞭打って」という言葉もあるが、そんなことしなくても、気持ちよく、元気に生きて行くことが出来るのである。老年と言っても、決して青春に劣るものではないのである。

 私はそのように老年を生きて行きたいと思っている。

 最後に、アメリカの詩人で、「草の葉」で有名なホイットマンの言葉に耳を傾けて見たいと思う。

 「青春」、でっかくて、元気がよくて、愛情いっぱいー優美さと、力強さと、魅力で溢れそうな青春よ、君は知っているか、「老年」がおそらくは君に劣らぬ優美さと力強さをそなえて、君の後からやって来るのを。      
     ホイットマン 「草の葉」

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2011年2月17日 (木)

関心

 関心を持つということは非常に大切なことである。関心があるかないかによって、私たちの人生はころっと変わると言っていいくらいである。

 家内は朝、ウオーキングに行っても、何処そこの庭ではこのような花が咲いていたとか、玄関先はこのようになっていたとか、あそこの家が売りに出されたとか、とにかくウオーキングをしている時は非常な関心を持って歩いているのである。

 同じようにウオーキングに出かけた私はただひたすら真っ直ぐに歩いていくだけである。道路の両側に目をやるということは殆どない。そんなに関心がないのである。

 恐らく同じ道を歩いても、見ること、感じることが殆ど違うであろう。関心のあるなしというのは、場合によっては怖いくらいである。

 国木田独歩は何処かで、「人間、驚嘆することがなくなったらお仕舞いである」というような事を言っているが、全くその通りである。関心があれば驚嘆もするものである。

  どの路でも足の向く方へゆけば必ずそこに見るべく、向くべく、感ずべき獲物がある。
         国木田独歩 「武蔵野

 要は、関心があるかないかである。その気があるかどうかということである。足の向く方に行っても、関心がなくては、見えても見えず、感じることでも感じることがなく、過ぎ去ってしまうのである。

 関心、更には好奇心、これを心に抱くことである。好奇心があれば、目の前は大きく開けてくるのである。好奇心を持ってば、驚きを感じ得ないようになるのである。

 関心・好奇心があれば、どんどん前に進んで行くことが出来るのである。後退はない、前に行くのみである。驚嘆し、喜び、希望が湧く。そのように人生が明るく変わって来るのである。

 関心・好奇心を努めて抱くようようにしよう。     

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2011年2月15日 (火)

  私たちは夢を抱かないといけない。特に若い人たちは大きな夢を描いて、それに向かって進まなくてはならない。

 中には、夢もなく、無意味に生きている人もいるが、何とか夢を持って欲しいものである。

 人間、どん底にあるとき、よく夢もチボウ(希望)もないと自虐的になる時も在るようだが、でも立ち直って欲しいものである。

 ウォルト・ディズニーが夢をかなえる秘訣について語っている。

  夢をかなえる秘訣は4Cに集約される。それは「好奇心(curiosty)」「自信(confidence)」「勇気(courage)」「継続(continuance)」である。      ウォルト・ディズニー

 人間、好奇心がなくなったら、人間としての魅力はないとよく言われる。何かにつけて、好奇心を抱き、首を突っ込んでいく、このような人は活き活きとしているものである。

 そして自信のある人、この人は実に落ち着き払っている。自信があれば怖いものなしの感である。自信のある人を見るのは清々しい感じがするものである。

 勇気、勇気を持って行動する。この背後には自信があると思われますが、勇気ある行動も貴いものである。

 継続、「継続は力なり」という言葉をよく耳にします。今では、大学予備校の言葉になっている感がありますが、ものごとをする時、継続してやって行くということは非常に大切なことである。根気が続かない、嫌気が差すなどよくあることだが、継続することは非常に大切なことである。

 確かに、 ウォルト・ディズニーの言うように、夢をかなえる秘訣は彼の言う通りであろう。

 ウォルト・ディズニーの映画が成功を収めているのはよく分かるような気がするのである。

 

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2011年2月12日 (土)

夢七訓

 今回は、実業家である渋沢栄一氏の言葉を掲げてみよう。説明も何も要らないかと思う。とにかく、今の若者に、いや年金生活者である私たちにも語りかけている言葉として受け止めたいと思う。

 渋沢栄一氏とは、幕末から明治維新に掛けて活躍した人である。

 維新後は大蔵省にに出仕しており、後に第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績などを創立している。渋沢財閥を形成した。教育・社会事業にも尽力した人である。

    夢七訓

    夢なき者は理想なし
    理想なき者は信念なし
    信念なき者は計画なし
    計画なき者は実行なし
    実行なき者は成果なし
    成果なき者は幸福なし
    故に幸福を求めるものは夢なかるべからず。
             渋沢 栄一

 全くその通りである。逆もまた真である。

     幸福なき者は成果なし
     成果なき者は実行なし
     実行なき者は計画なし
     計画なき者は信念な
     信念なき者は理想なし
     理想なき者は夢なし
     幸福を求める者には夢がある

 今回はこの言葉を十分に味わって欲しい。老若男女、生きとし生きるもの、このような生き方をして欲しい。

     

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2011年2月10日 (木)

想像力

 あの人は想像力が豊かであるとか、貧弱であるとか、よく耳にすることがある。

 想像力豊かであるということは、それだけ夢があるということであろう。従って、想像力豊かでありたいものであるが、想像力も使いようというか、どのように想像するかということは問題であろう。

 パスカルの言葉に耳を傾けてみよう。

 想像力は万事を左右する。それは美や正義や幸福を作る。それらはこの世の万事である。
                  パスカル

 私たちは想像力で、美や正義や幸福を作り出すことが出来るという。その通りであろう。それだけに、私たちは自分が想像することが非常に大切になって来るのである。

 私たちはよく想像することによって、自分たちの生活をより豊かなものにすることが出来るのである。 

 逆に、想像することを誤ると、私たち自身を低俗なものにしてしまうことになるのである。

 悪く想像するというか、いや妄想するということになるであろうか、妄想ということになると、低次元のものになり、そこに安住すようではいけないので、正しく、よく想像するように努めなくてはならないと思う。

 パスカルのいうように、私たちも想像によって、美を、正義を、幸福を作り出すようにしなくてはならない。

 最近の言葉で言うと、イメージする、良いことをイメージする。美しいものをイメージする。健康なものをイメージする。美しい愛をイメージする。正しいことをイメージする。心豊かになるようなことをイメージする。

 プラス方向に想像・イメージするのである。必ずよきものが生まれてくるのである。決してマイナス方向に想像・イメージしてはならない。マイナス的なものしか生み出されてこないであろう。

 想像力豊かになろう!想像力は自分の人生を左右する。良いものを生み出すような想像力を養っていこう。

  

   詩篇 103編 1~5節

 103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

103:2 わがたましいよ。 主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

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2011年2月 8日 (火)

侮辱と汚れ

 私たちの多くは、他の人たちから侮辱されることに痛く傷つくのではないだろうか。

 「俺は侮辱された」「私の名誉が傷つけられ、これは侮辱のなにものでもない」とか、私たちの周辺でよく耳にする言葉である。

 ひょっとして、私たち自身が、「侮辱された」と思ったことがあるのではないだろうか。

 ここで、ルース・ベネディクトの言葉に耳を傾けて見よう。

 本来、人は自分が自分が侮辱されたと考えない限りは侮辱されようがない。また、人を汚すのは、「本人の内部からにじみ出てくるもの」であって、その人に対する悪口や嫌がらせではない。  ルース・ベネディクト  「菊と刀」

 彼女の言うとおりである。人は侮辱されたと思うから、自分は侮辱されたの言うのであろう。もし自分は侮辱されたと思わないならば、侮辱などされたことにはならないのである。

 「セクハラ」とか「差別」などにも同じようなことが入れるのではないだろうか。

 しかし、侮辱の場合は「セクハラ」や「差別」とちょっと違ったところがあるのである。

 彼女が後半で言っているように、侮辱されたと言っても、それは実は、元を正せば、自分自身から出たことではないだろうか。

 聖書でも次のように言っている。

  マタイによる福音書 十五章十~二十節

 15:10 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。

15:11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。

  ・・・・・・・・

15:15 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。

15:16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。

15:17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。

15:18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。

15:19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、

15:20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。

 侮辱されたと言うが、実は自分の口から汚れた言葉出て、人を汚し、自分自身も汚れるのである。

 その言動に対して、人々が言ったことを、「これが侮辱だ」と言って、自分が感じ、思ったとしても、その根本は自分から出ているのである。

 自分の心の中から出てきたものが、そもそも問題であり、原因となっているのである。

 「侮辱された」と言う前に、己の心の中から出て来るもの、口から出てくるものに心しなくてはならないのである。

 口から出るものに注意しようではないか。

 

 

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2011年2月 6日 (日)

恥じの文化

 今からするとずっと古のことになってしまうが、私に若い時に、ルースー・ベネディクトの「菊と刀」がベストセラーになっていた。

 ベネディクトはアメリカの女性人類学者で、終戦後アメリカの軍関係で日本に来て、確か、この本を書いたと思う。

 この本の中で、日本の文化を「恥じの文化」と位置づけたのである。当時、この分析、分類が話題を呼んだのである。

 今回は彼女の文を紹介したいと思う。

 日本人は恥辱感を原動力にしている。明らかに定められた善行の道標に従えないこと、いろいろの義務の均衡を保ち、また起りうべき偶然を予見することが出来ないこと、それが恥辱である。恥じは徳の根本である、と彼らは言う。恥を感じやすい人間こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である。
          ルース・ベネディクト  「菊と刀」

 今日では、日本から「恥辱」という言葉がなくなってしまい、あたかもその言葉は死語になってしまったように思われる。

 しかい、日本文化は「恥ずかしい」という思いから成り立って来ているのだといってもいいかと思う。

 ベネディクトは、その填、的を得ていると言っていいのではないだろうか。

 その恥は、世間に対したものであり、己自身に対したものである。

 「恥」が徳の根本であるとの彼女の考えはほぼ間違ってはいないだろうと思う。

 今の「恥辱」なる語が死後のようになった今、先ずはもう一度、日々の生活の中で「恥ずかしい」という思いを抱くようになって欲しいものである。そうすれば、今の殺伐とした日本の姿も少しでもよくなってくるのではないだろうか。 

 新聞の三面記事からも、殺人や虐待や詐欺や暴力や不正などが、いや政治・経済面の記事もころっと変わって来るのではないだろうか。

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2011年2月 4日 (金)

仕事

 アダムとイヴが禁断の木の実を食べて以来、人間は働かなくてはならなくなった。

 創造主が人間に命じられたことである。

    創世記 3章 8~21節

  3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

3:12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

3:13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

3:14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。

3:15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

3:16 つぎにに言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。

3:17 更にに言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。

3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

3:20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

 そう、人は一生、苦しんで力食物を取り、顔に汗して、パンを得なくてはならないのである。

 私たちは大きくなれば、仕事に就くのである。己のため、家族のために、仕事をし、生計を立てて行くのである。

 ところで、私たちは、「雑用ばかりさせられる」とぼやきながら仕事をしている時がないであろうか。与えられた仕事に対して不満たらたらである。

 「雑用」とは一体なんであろうか。次のように言っている人がいる。耳を傾けるに十分な言葉であるかと思う。

 この世に、「雑用という用はありません。私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます。」
             渡辺和子

 どんな仕事であろうと、いつか、どこかで役に立つのである。無駄に終わる仕事は決してないのである。

 渡辺氏が言われるとおりである。仕事を雑にするから「雑用」になってしまうのである。自分で自分の仕事を雑用にしてしまい、自分で卑下し、不満をまき散らすのである。

 仕事を忠実にやって行こう。

 以前に、内村鑑三先生の「一日一生」について書いたことがあるが、その精神を一にする言葉がある。

 セネカの言葉である。

 毎日を最後の一日のように思いつつ生きよ。
            セネカ

 内村鑑三先生やセネカの言葉のように生きて行くならば、自分に課せられた仕事も、充実した仕上がりを見るようになるのである。

 仕事に対する姿勢について一考してみてはどうであろうか。

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2011年2月 2日 (水)

最も偉大なる主人

 ヒルティは人間は最も偉大なる主人に仕えなくてはいけないと言う。

 早速、ヒルティの言葉に耳を傾けてみよう。

  われとはわれも、巨人クリストフォルスのように、この地上で最も偉大な主人に仕えようと堅く決心しなければならない。しかし現代では、そのような主人とは、物質的進歩と享楽であろうか、芸術であろうか、祖国とその代表者(国民あるいは君主)であろうか、科学であろうか、教会であろうか、それとも神とイエスであろうか。
  これについては、あなたみずから決定し、その上で正しく、また心を尽くして精神を尽くして、それに仕えなさい。
  注:クリストフォルス・・・カトリック十四聖人の一人。伝説によれば、彼は渡し守をしながら、この世で最大の主人を求めている間に、幼児の姿をしたキリストを、それと知らずに背負って川を渡してやり、その途中に川の水で洗礼を受けて彼に従ったという。

 皆さんの最も偉大な主人は、誰であろうか、何であろうか。自らの力でその方を、そのものを選ばなくてはならない。選択を誤ると、あなたの人生の道を踏み外すことになるのである。

 中には、私には主人は必要ない。自分は自分の足でこの世を歩んで行くんだ、誰も、何も自分は必要としないと主張する人もいるかと思う。

 しかし私たちには私たちを導き、行くべき道を教えてくれる主人が必要である。全幅の信頼を寄せる主人が必要である。

 私たちはその最も偉大な主人を選ばなくてはならないのである。

 私の場合は、イエス・キリストを選んだ。いや、選ぶなんてことは奢りである。私はイエス・キリストによって選ばれたのである。

 私のこの世で最も偉大な主人はイエス・キリストである。

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