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2011年3月31日 (木)

お医者さんのホンネ?

 日本健康科学学会関西支部理事で、エッセイストの里深太典紀さんの本を読んでいたら、面白い記事に出会ったので、全文記載したいと思う。

 お医者さんのために書かれた「ドクターズルール425」(医師の心得)という本があります。
その中に第四十六番目に「あなたが診ようが診まいが、ほとんどの外来患者の病気は治るものである」という項目がありますが、なぜかホッとして面白いと思いませんか。

 そして第四十九番目には「薬とは患者の気分をよくするものであって、悪くするものは薬でない」とか、一一一番目「ほとんどの患者は自分が病気になった理由を知っている」。二○四番目「老人のほとんどは、服用している薬を中止すると体調がよくなる」などと書かれています。

 この本は、アメリカの臨床医たちに広く読まれた、日本では京都大学医学部総合診療部の福井次矢教授が翻訳した一○○ページほどの読みやすい格言集のようなものです。
 たぶn医師の多くは、ここに書かれてあるような人間臭い本音と、医師としての重い責任を果たすための建前?を行き来し、診療にあたっているのではないでしょうか。

 本当は人間のからだは、想像以上に自然治癒力を持っているものだと思います。そして患者は自分の発病の原因にたいてい気づいているし、医師が診ても診なくても治る可能性を、漫然と感じているのだと思います。

 良い主治医と人間的な触れ合いをし、おおらかに対処すれば、もっと病気は治りやすいのかもしれませんですね。
         里深太典紀

 里深さんが仰っておられるとおり、このような話を聞くと、ホッとしますね。気が楽になり、そうだ、自分の病気も直るのだというチョとした確信のようなものが持てた思いではないですか。

 人間には本来、自然治癒力が備わっているということを確信して、病気の人は病気に打ち勝とうではないですか。

 健康な人も、病気を恐れずに、ますます自分の健康に自信を持照るのではないだろうか。

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2011年3月28日 (月)

人の道

 私たちがこの世を生きて行く時に、人の道をはずれるようなことはしてはいけないとよく耳にすることがある。

 人の道とはいかなるものであろうか。戦前には、教育勅語があり、学校でも道徳の時間などで教えられたことであろう。私は戦前の教育は受けていないのであるが、、、。

 今、教育勅語の話をすると、いろいろなところから反対意見が入ってくる。

 でも、教育勅語の中身をよく読んでみると、今の世でも通用することであり、人が人として生きていく上において必要なことが書かれていると思うのである。いわば、人の道がうたわれているのである。

 あの内容が、勅語だからいけないのであろうか。一度教育勅語を取り上げてみたいと思うが、今回は中江藤樹の言葉だけ記しておきたいと思います。

 この宝は天にありては、天の道となり、地にありては、地の道となり、人の地にては、人の道となるものなり。元来、名はないけれども、衆生に教え示さんために、昔の聖人その光景をかたどりて、孝と名づけたまふ。
         中江藤樹「翁問答」

 「孝」というのは、両親を敬い、子としての道を尽くすことをいうのであるが、最近、殆ど耳にしない言葉である。あたかも死語になってしまったような感がする言葉である。

 「孝」を尽くした者が今では親になっているから、当然、その子供たちも親に孝などということは考えられないのである。その繰り返しが行われていくのである。これが人生になるのである。

 親子の関係は希薄になっている要因であろう。

教育勅語と一緒に考えて見たいと思う。

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2011年3月26日 (土)

明るく、愉快に

 東日本大震災では、今、日本は大きない試練の中にいると思う。

 未曾有の大津波や地震、専門家の予想をはるかに上回ったものであったという。

 この大津波や地震で被災された方、亡くなられた方、皆さんにはどのような言葉をかけていいのか、全く分からないくらい、心を痛めている。日本の、いや世界の誰しもが、亡くなられた方には安息が、被災された方には慰めと平安があることを心からお祈りするものである。

 原発事故も早く収束して欲しい。良い方向に進んでいるかなあと思うと、一方で悪い報告がなされる。報告の仕方も説きに、人の心を惑わせるようなことが多いようである。

 1+1=2 のように、発表する数字から聞く人がいらぬことを想像することのないような発表であって欲しい。

 命を駆けて働いている原発の人たち、被災者や行方不明者のために、寝食を忘れ、「私」を返上して、働いている人たち、ただただ頭が下がるばかりである。何も出来ないでいる自分がまどろかしい思いである。

 被災されている人たちには厳しい言葉かと思う。厳しい苦難の中にあっても明るく元気でいて欲しい。そのことが明日に繋がり、希望となっていくのである。

 シェークスピアーの言葉も一度聞いて欲しいと思う。

 人は心が愉快であれば終日歩んでも倦むことはないが、心に憂いがあれば、わずか一里でも倦む。人生の行路もこれと同様で、人は常に明るく愉快な心をもって人生の行路を歩まねばならない。

 身内も泣くなり、家も流され、行く所もない多くの被災者の人たちには非常に苦なる言葉であるかと思うが、心は明るくあって欲しいのである。

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2011年3月21日 (月)

必ず

 今、日本は大きな試練の中にいる。未曾有の地震と津波に見舞われ、それによる大きな被害、更にそれに伴って原発の事故、これらを日本がどのように乗り越えていくか、正に日本に問われているのである。

 今、多くの人たちが苦しい避難生活をしている。ここに見るのいは日本人の実にいい点ばかりである。みんな協力して、わが身の安全を顧みないで、また自分の家族の哀しいことも横においておいて、救助に当たっている人たちが多くいる。

 苦難の中にいる日本人は今は世界の賞賛も得ている程である。私たちに日本人はみんなで助け合って、日本人のそこ力を示したいものである。

 必ず、光は差してくるのである。

   君よ、春が来るのだ。
  冬の後には春が来るのだ。
      有島武郎「小さき者へ・生まれ出づる悩み」

 必ず春は来る、確実に来るのである。東北・関東の被災された方、これらの言葉はうつろに聞こえるかもしれないが、春は必ず来るのである。

 悲しみの中から、希望を持って生きて行って欲しい。私たちも出来ることはして行こうではないか。

   ほんとうにどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中での出来事なら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく。
     宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

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2011年3月11日 (金)

宮沢賢治の言葉

 ジックリと書きたいと思いますが、今回は宮沢賢治のことを一言だけ記することにする。

  本当に辛いことでも、それが正しい道を進む中での出来事なら、峠の上りも下りもみんな本当の幸福に近づく。
     宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」

 彼の言葉を味わってみて下さい。

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2011年3月 7日 (月)

言葉

 言葉は諸刃の剣であるとよく言われる。
言葉というものは人を生かしもするし、殺しもするのである。

 まず言葉について書いてある聖書の箇所を見てみよう。

       ヨハネ 一章 一~四節

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神で
      あった。

1:2 この言は初めに神と共にあった。

1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののう
      ち、一つとしてこれによらないものはなかった。

1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であっ
      た。

この言葉は宗教的には非常に深い意味があるのであるが、今は言葉には命があり、本来は人の光をなるべきものであるのであるということだけを理解していただこうと思う。

 それが、今日、言葉が諸刃の剣になってしまっているのである。人を殺すという恐ろしい言葉にもなってしまっているのである。

 ここに、一つの言葉を見てみよう。

  貌言(空疎な言葉)は華なり 至言は実なり、苦言は薬なり、甘言は疾(やまい)なり。
     商鞅(商君書ー中国流統治の学)

 私たちはよく空疎な言葉を耳にすることがある。ややもすると自分自身が空疎な言葉を口にすることがある。

 商鞅は言う、「貌言は華だ」と、その通りであろう、空疎な言葉というのは多くの場合、耳には心地よく聞こえるのである、上辺だか飾られていて、中は空っぽで、中身の薄い言葉なのである。聞いた時は正に華に聞こえ、見えるのである。

 一方、「至言は実である」と言う。この言葉こそ、人を生かす言葉なのである。その言葉は実であって、人を大きくし、真の華を咲かせるに至るのである。

 苦言と甘言についても、全く彼の言うとおりである。日本の諺にもあるように、正に、「良薬は口に苦し」である。苦言は確かに耳が痛い言葉である。しかし、この言葉によって、人は立ち直り、正道を歩むことになるのである。

 甘言は人を自立できない、弱い人間にしてしまうものである。

私たちは語るべき言葉には十分心を使って行かなくてはならないのである。

 聖書の言葉と商鞅との言葉によく耳を傾けて、自分の生活の中で生かして行きたいものである。 

 

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2011年3月 4日 (金)

生き甲斐

 生き甲斐は何か?何を生き甲斐に生きているのか?今までによく聞かれた質問である。

 人間は生を受けて以来、自分の人生を生きて行く時、生き甲斐をもって生きて意向と決意するものである。

 ところが最近の若い人たちは何を生き甲斐に生きているのかよく分からない。そのような人が増えて来ているように思われる。

 そんな時、石川達三氏の言葉に出くわした。その言葉に惹かれるものがあった。

 若い人たちはよく、「生き甲斐がない」と言います。しかしそれは当たり前です。孤立した人には生き甲斐はない。生き甲斐とは人間関係である。 -青春の蹉跌ー

 確かにそのとおりだと思う。本人はひょっとしたら何も気が付いていないのかも知れないが、今日の若者たちには、人間関係というものがあまり結ばれていないようである。

 そのことに気が付いていない若者は、「いや多くの人関係を持っている」という。

 しかし、よく聞くと、この関係はメールを通しての関係なのである。

 只、文字の交換に過ぎない関係なのである。会ったこともない、言葉を交わしたことがない。ただ、PCを通しての文字だけである。その文字になった言葉は、薄っぺらな言葉に過ぎないのではないだろうか。何ら血が通っていない、温もりがない、そこからは、決して、生き甲斐は生まれて来ない。

 いあわゆる、お宅である。家で、PCをいじっているだけである。PCをいじる技術は優れている。今問題になっている、京大や同志社大や早稲田大や立教大などで、携帯を使ってのカンニングである。私たちには考えられないことをやってのける。

 彼らは殻に、家に閉じこもってしまっていて、本来の人間関係は結ばれていないのである。人を目の前にしては何も出来ない、おどおどしてしまうのである。

 石川達三氏の言葉をもう一度ジックリ読み直して、生き甲斐のあり人生を送るために、よりよき人間関係を結ぶように努めて行ではないか。

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2011年3月 1日 (火)

天知る、神知る、、、

  今までよく耳にした言葉ではないかと思う。

 天知る。神知る。我知る。子知る。何ぞ知る無しと謂わん。     後漢書

 天も知っている、神も知っている、私もあなたも知っている。どうして知っているものが誰もないと言えようか、みんなが知っているのである。

 この言葉は後漢の楊震が、誰も知る者がいないからと言って、賄賂を贈ろうとした人に対して、断った時の言葉と言われている。

 私は何故か、この言葉を今の政治家に聞かせたいように思うのである。

政治家は言う、 「国民のためになることをしているんだ」と、しかし、今の国会での討議や、菅首相などの言葉を聞いていても、国民にとっては彼らの言葉が非常に虚しく聞こえてくるのである。

 一言で言うならば、「自己保身」である。国のことや国民のことよりも、自分が次ぎの選挙で当選するかどうか、それしか頭に内容である。彼らの発言も、国民のため、国家のためと言っているようだが、本心は自分のことしか頭にないようである。

 このまま言ったなら、四月から国民の生活の直接、影響して来ることが起って来るのである。私たちは毎日、生きて行くために、一生懸命に働いているのである。その働きが無にならないような政治をして欲しい。国民一人一人が希望の持てる、夢を描くことが出来る政治をして欲しい。

 国民の信用をなくし、外国からも信頼されなくなった国は、本当に、「日本沈没」となりかねないように思われる。

 後漢書の言葉を、肝に銘じて、政治を行っていくことを願うばかりである。

 政治屋ではなく、真の政治家よ、出て来いである。

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