2008年12月25日 (木)

目は手と違う

 コリントの教会で、会員の中で何らかの対立が生じていたのでしょう。一言で言うなら、互いが自分を正しいとし、相手を間違いとして、蔑視するような状況があったのだろうと思う。

 それに対して、使途パウロは次のように、コリントの教会に宛てた手紙の中で書いているのである。

    新約聖書 コリントへの第一の手紙 
        十二章十四~二十七節

12:14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くの
     ものからできている。

12:15 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属
          していないと言っても、それで、からだに属さな
          いわけではない。

12:16 また、もし耳が、わたしは目ではないから、から
         だに属していないと言っても、それで、からだに
          属さないわけではない。

12:17 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くの 
         か。  もし、からだ全体が耳だとすれば、どこで
         
かぐのか。

12:18 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、か
          らだに備えられたのである。

12:19 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにか
          らだがあるのか。

  12:20 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つ
          なのである。

12:21 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは
          言えず、また頭は足にむかって、「おまえはい
          らない」とも言えない。

12:22 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも
         弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、

12:23 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思える
         ところに、ものを着せていっそう見よくする。麗し
         くない部分はいっそう麗しくするが、

  12:24 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣って
          いる部分をいっそう見よくして、からだに調和を
         お与えになったのである。

  12:25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの
          肢体が互にいたわり合うためなのである。

  12:26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共
          に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢
          体もみな共に喜ぶ。

  12:27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりび
         とりはその肢体である。

目は手に向かって、「お前は要らない」ということは言えず、また頭も足に向かって、「お前は要らない」とは言えないのである。

 これらのことはよく考えてみれば、当たり前のことであり、何を今さらこんなことを言うのかと思うくらいである。

 私たちの体の各部分はそれぞれ固有の役割と機能を持っているのである。パウロはコリントの教会の人たちにこの単純なことを思えと言うのである。

 人間が集団生活をし、集団活動をして行く時に、必ずと言っていいほど、起って来る問題が、出きり人が出来ない人を非難したり、軽蔑したりすることである。また出来ない人も自分の才能を呪ったり、ひがんだりして、自ら自らを貶めてしまうことがよくあるのである。
聖書はこのような人たちに語っているのである。

 現に私たちの生活している社会で、同じようなことが起きているのである。ややもすると直ぐに、それぞれの働きを無視しようとするのである。

 しかし、人々が集まって、集団を成している時、構成員それぞれが、異なった役割があり、また能力がある事を理解し、そしてそれらがある種の共同を作り上げていくことを互いに自覚し、お互いがそのことを受容して行くようにならなくてはいけないのである。

 これらのことは小は家族間で、大は国家間でも言えることなのである。

 人それぞれには与えられた賜物があるのである。お互いがその事実を認め合い、受容し合わなくてならない。

 そして、こっらのことは自然界の生きとし生けるもの全てに言えることなのである。

 動物や植物から、土や水、山や川など、それぞれがそれぞれの働きをしているのである。またそれぞれの役割というものがあるのである。この事実に私たちを目を開かなくてはいけない。

 

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2008年9月20日 (土)

初めが大事

 物事は始めが肝心・大事であるとよく言われますが、全くそのとおりだと思います

    「曲木すでにつくれば、直木施すところなし」
                   菅仲

 菅仲という人は、中国春秋時代の斉国の宰相でありますが、彼の言葉を見て、ことの初めが大事だということを再確認したいと思う。

 家を建てようとする時に、一番初めに曲がった材木を使うと、それに合うようにするために、次に使う材木はやはり曲がった材木を使わざるを得ないという。真直ぐの木を使いたいのだが、それでは、その前の曲がった木には合わないことになる。最後まで曲がった材木を使うことになる。その結果出来上がった家は今日の言葉で言うならば、欠陥住宅ということになるでしょう。

 これは私たちの人生においても全く同じことが言えると思います。

 事を始める時に、最初に間違ったことをすると、最後まで、それに合わせるように、間違ったことを続けていかなくていけなくなってしまうものであります。

 よく言われることでは、初めに嘘をつくと、その嘘をかばうためにまた嘘をつく、嘘に嘘を重ねることになり、真実は何処か遠いところに飛んで行ってしまっているのであります。

 最初に間違ったことをすると、正しいことが出来なくなってしまうのであります。

 シェークスピアの作品に、「終りよければ総てよし」というのがありますが、

  「始めよければ、終わりよし」です

 事を始めるに当たっては、最初の一歩を慎重に、正しく踏み出しましょう。自分の信念を持って事に当たる時、必ず、成功へ導いてくれます。

 初めを正しくすること、これが人生を正しく生きて行く道であります。

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